育てる≒伸ばす≠変える

 人を育てるのは難しいことだな~と思う。今は育てられる立場に立って生活しているけれど、僕をより成長させるにはこうすればいいのに、と何目線かわからないようなことをちょくちょく考える。

 新人教育や人材育成の難しさがどこからくるのか。いろいろな側面があるのだろうけれど、一番大きいのは”個人差”であろうと思う。どれくらい理解力があるかとか、自主性があるかとか、そういうのだけでなくもっと根本的な、どういう認識の仕方をするかとかどういったところに注意が向くかといった、半ば無意識的なところが重要になってくるように思う。人によって、文字ベースであったり映像ベースであったり、抽象的であったり作業的であったり、物事を理解して飲み込むときの噛み砕き方が違うので、教える側とそこがずれると苦労するだろうなと思う。

 最近は多様性が重要だということで、トヨタ自動車では理系の推薦枠を廃止。学部の枠にとらわれない採用をしていくということだが、そういった所属的な意味での多様性よりも各個人のパーソナリティの多様性がより重要だと思う。興味の向く方向(内的、外的)や物事の認識の仕方、性格などが偏ってしまうと組織に方向性ができてしまい変化に対応しづらくなってしまう。会社の求める人材像や、現場の人々が感じる「いっしょに仕事がしたい」という感覚で人を選ぶとどうしても選ばれる人のパーソナリティに偏りができてしまうだろう。性格診断や専門の人が面接に入るなどして、戦略的に取り入れなくてはならない性格をもった、求める人物像を体現できる人材を採用していかなくてはならないのだろうなと思う。

 そうなってくると、それぞれの人物に最適な教育方法は変わってくるし、活躍できる場所も当然違う。というよりも順番的には、その場所にまさに必要なパーソナリティをもった人物を適切に配置するということになるだろう。これまでは、改革が必要なところにはその実績がある人を送って腕を振るってもらう、という「能力」を主眼においた配置がなされていたが、それは短期的に場を変革するための戦術的な策だ。長期的な視点に立って、変化に強い自己変革のできる組織を作るなら、そのような視点(性格)をもった人物を配置して伸び伸びやってもらうのがよいだろう。ここで画一的な教育をしてしまうとせっかくの個性がつぶされてしまいかねない。多様性を維持するためにも、個人の特性をみた教育は非常に重要であるはずだ。

 しかしながら、そんなことができる人が一体どこにいるだろうか。日本は小学校に入る前から画一的な教育を受けて大人まで育つ人がほとんどだから、人によって適切な教わり方があるという認識すらない人も多いのではないだろうか。変化の多い時代。~人材などいろいろなことが言われているが、個人を個人として認識し、真に適材適所で配置できるようになるのは一体どれほど先の事になるだろうか。というかそんな時代はくるのだろうか。