潤滑油になれない人

 職場に食堂があり、事務所のある建屋とは違う建屋に入っているため、昼食時には5、6分歩いてごはんを食べに行く。今日の昼休みは珍しく先輩社員と世間話をしていたため、そのまま連れ立って食堂まで向かう運びとなった。世間話ほど苦手なものもそうそうないけれども、円滑な業務と生活のために何気ないコミュニケーショをとっておくのは得策である。幸いに先輩社員が楽しそうにスポーツのことなんかを話しているので、相槌をうちながら傾聴していればよい。

 そうして事務所のある建物を出たのだけれども、そのときに見た空が本当に素晴らしかった。空気が澄んできれいに青みがかって、薄く綿を敷いたような雲がなんとも言い難い、複雑な美しい模様を描いている。1人であったならば、その感動を噛みしめて束の間の安息を得たであろうに、連れ立っているがためにゆっくりと感じ入ることができなかった。なんというもったいないことをしてしまったのだろう。タイミングの悪さを呪いたくなる出来事だった。

 他人とコミュニケーショをとるというのは、人間には欠かせないことだと思うけれども、僕にはどうもうまくいかないことが多い。いろんな人と気持ちよく会話できるひとはすごいな~と思う。

褒め方ひとつで変わること

 褒められるのはうれしいことだと思う。けれども、それが他のだれかを貶めるためであったり、他のだれかを貶めることによってもたらされるものだと、うれしいどころかひどく侮辱されたような気持になる。少しニュアンスは違うけど、「~を見習いなさい」ということを言ったりするとき、見習われる方は少なからず居心地の悪い思いをするものだ。

 子どもを褒めるときにもこの点は気を付けなくてはならないと思う。努力をして何かを達成したのなら、その子自身の頑張りを認めてやらなければならない。決して、誰かと比べて多かった少なかったと評価してはいけないと思う。なぜなら、純粋に目標へ向かって頑張っている人には、他人など眼中にないからだ。ただ自分自身と向き合い、苦しさを噛みしめて耐え、達成したときの喜びを糧に努力を重ねる。そこへわけのわからない他人の評価を重ねるのは無礼だし、自分の努力を否定されたような気持ちになってしまう。

 褒めることや報酬を与えること(大枠では同じ意味)は、動機づけとして非常に重要であるけれど、やり方によっては反対の効果を発揮してしまう。けっこう難しいものなのだ。子育てにおいて、”しかり方”に関して悩んだり、持論を持っている人はよく見かける。しかし、子どものモチベーションを大きく左右するのは”褒め方”であって、しかるときよりもよほど慎重にやり方を考えるべきだと思う(しかるときは、ダメなものはダメだときっぱり言えばよい。善悪の判断を教えるためで、感情をぶつけるのは違う)。

 自発的な努力は人生を豊かにするうえで非常に大きな価値を持つけど、これを形作るのは褒め方によるところが大きいと思う。だから、自分に子どもができたら精一杯気を付けて褒めてあげようと思う。無論、来世での話ではあるが。

通勤という瞑想

 夏休みが明けたころから6時前に家を出ている。10月に入るころくらいまでは、日が出る前は涼しくていいな~と思っていたけど、今日は玄関を出たらとても寒かった。とうとう冬がやってきたな、という雰囲気だった。僕は冬が一番好きな季節なのでうれしいけれども、やっぱり寒い中歩くのはつらく感じてしまうよな。

 川を渡るときに目に入ったのは、マガモの群れが水面を滑っていて、紅く染まった落ち葉がその傍らを通り過ぎていく光景。自然の情景は見るだけで心が休まる。窮屈な事務所でPCの画面と対峙し続けるのがどんなにストレスがたまるかをかえって再認識させられるような気がする。束の間の開放と、これからまさに挑まんとする戦いの場。通勤路というのは複雑な面相をもった瞑想の場であるといえよう。やはり人が少ない早朝が望ましい。

 毎日決まった時間、決まった電車に乗る人々。機械のように同じ動きを続けながら、その実少しづつ変化する彼ら彼女らを定点観察するのも楽しい。自分もそんな人たちの一人だと考えると、東野圭吾の世界に飛び込んだかのような感覚におちいる。求めることとは反対に、機械的に仕事へ向かう体から離れていった心が、ふわりふわりとこぼす現実逃避。そんなときの僕は最高にクリエイティブだけど、帰り道には朝の妄想は忘れてしまって、今日の反省や明日やることを反芻している。やっぱり一刻も早く、ただ無為に過ごす生活を手に入れなければならないな。毎日そう思う。

最近の夜ごはん、10分で終了

 今月に入ったあたりからごはんを作らなくなった。半年ほど前までは食材を買ってきて結構手の込んだおいしいごはんを作っていたけど。3か月前くらいからは缶詰でソースを作ってパスタ1皿だけの生活に入り、とうとうソースすら和えるだけのやつを買ってくるようになってしまった。自分で選択してやっているけどちょっと寂しい気はする。

 せっかく肌の調子もよかったのになぜごはんを作らなくなったのかというと、絶対に達成したい目標ができて、その達成のためにはできる限りの時間を勉強とかにあてないといけないと思ったから。目標というのは40歳になる前に雇われの身を辞めようということ。あと10年だから、死ぬ気で自分にできることを探さないと達成はできないだろう。

 もちろん、収入を激減させて我慢して暮らすならすぐにでも会社を辞められるけど、そんな暮らしはしたくない。自分で時間の使い方を決めたいし、お金の使い方も自分で決めたい。すなわちわがままなのだ。

 わがままを通すためには相応の努力をしなければならない。僕のような後ろ盾のない貧乏人であればなおさら、だれにも文句を言われない状態で大手を振って世間にサヨナラしなければ。20代も残りわずかとなって人生の課題を発見したから、スタートが遅れた分必死にならなければな~と思う。

 

だれのなんのための対策?

 ここ1か月ほどは会社の方でもコロナ関連の騒動はずいぶん収まりがつき、時間ベースで50%目標と謳われた在宅勤務もほとんど実践する人を見なくなった。かといって完全に気を抜いてしまったわけではなく、個人デスクの間にパーディションを設置したり、マスク着用が促されたり、出張するのに大変な手続きが必要だったりして警戒は解かれていないぞ!というメッセージを常々感じながら仕事をしている。

 しかしながら、役職が上の方にいくにしたがって過度な警戒に対して冷ややかな対応をしているように見える。人が密集していない場面ではマスクを外していたりする。反面人が多い時間帯での通勤などリスクのある状態に対しては敏感に反応して対応をしているようだけれども。要するに必要十分な対策をしている、ということで、やればやるほどOK!というような対策の仕方はどうも受け入れがたいな~という雰囲気を感じる。まぁ技術屋としてはデータを見て必要なだけ対策をしてリスクがあるならそれを避けるのは当たり前のことではあるが。

 そんなさなか、どこからともなく舞い込んできた心肺蘇生法のしかたについて。

       人工呼吸は極力しないで心臓マッサージに徹すること

 なんと、コロナウイルスに感染するといけないので人工呼吸はしないようにとのお達しがどこからかやってきたのである。コロナウイルスに感染した人とその重症率及び死亡率に対して、人工呼吸はその一切をやめておけと言われるような意味合いしか持たないということである。確かに学校で心肺蘇生法を習った際は、「大事なのは心臓マッサージの方で、人工呼吸ができなくてもひたすら心臓マッサージは続けるように。」と教えてもらった覚えはある。しかし、人の命が掛かっている場面で助かる可能性を少しでも下げてはいけないと思って、一生懸命に気道確保と口で口を覆う練習をしたのではなかったか。それがコロナが流行しているので人工呼吸はしない方がよいというのだから、あの練習は無駄だったのかと皮肉めいた気分にならざるを得ない。だったらインフルエンザやその他の感染症がある以上、コロナ流行以前においても人工呼吸などやらない方がよかったのではないかと思う。それか人口全員に感染対策用マウスカバーを用意するか、AEDとともに人工呼吸を行う器具(ブロワーみたいなやつ)を設置しておくべきだろう。

 気になるのは、本当に人工呼吸には大半が無症状または軽症のコロナウイルスを避けるために「とりあえずやらない」とするだけの意味しかないのか、ということである。コロナウイルス感染から重症化して死亡しているひとがいるのは確かだが、目の前に人工呼吸をしなくては命が助からないひとがいたら自分は迷わず実行するし、それによってコロナウイルスに感染して自分が死んでしまうリスクは限りなく小さいように思える(その反対に関してはまずその場の窮地を脱することが優先。コロナによる死があったとしても別の問題ではないかと思う)。その小さいリスクにも負けるほど人工呼吸には効果がないのか。例えば一般人のする人工呼吸は大体においてやり方が間違っているので意味がないとか、そもそもやる場合とやらない場合とで蘇生率があまりかわらないとか、何か根拠が欲しい。そうでなければやらないことに対して後ろめたさのようなものを感じる。なにより人命救助の象徴のようなこの行為がほぼ無意味であるかもしれないという中途半端な気持ちにスパッと区切りをつけてしまいたいのだ。

 飲食店などに関してはむやみな自粛の強要も見られなくなったし、ウイルスの特性に根差した必要十分の対策をうてるようになってきているように感じられる今日この頃。しかしながら、まだまだ根拠不明の謎の指令が下ってくるようで、いったいだれがなんのために指示している(していた)のか、世間知らずの僕は混乱するばかりだ。そもそも人工呼吸なんてそうそうする機会もないのに、秋の風吹く帰り道に黙々と考えさせられてしまった。

エーペックスレジェンズ

 中学の同級生から、エーペックスレジェンズやろうぜ!と誘われたのでやる。奮発していいGPUを買ったので、ちょっとは3Dゲームでもやらないと宝の持ち腐れかな~と思ってちょいっとダウンロードしてきた。今日はさっそく一緒にやってみたんだけど、とにかくすぐ死んじゃう!なんか知らない間に撃たれて死んでる。やっぱりヘッドホンをつけて足音とか聞いてないと敵に気づけないし一方的になっちゃうんだな。しょうがないから今度買ってこよう。

 ちょっとやってたらすぐに1時間経過。明日も5時起きなので早々に切り上げたけども、がっつりやってたら半日くらいすぐだなこりゃ。もし中学生とか高校生の子どもがこのゲームを始めたら大変なことになるだろうなと思った。最初の方はゲーム特有の上達スピードで面白いし、空いた時間をとにかくこれに費やしたくなっちゃって眼精疲労にもなりやすい。脳内の報酬物質が多量にでるから勉強とか他の事への意欲が出にくくなって集中力を維持しづらくなってしまうかもしれない。FPSゲームはちょっと刺激が強すぎるので子どもには与えるべきでないな~というのが僕の感想であった。

 刺激という点ではこのゲームのスピード感が僕の通常の時間認識の1.8~2倍くらいの感覚でいないとほかの人についていけないような感じがする。短期でぐっと集中する、という観点からすると使いようによっては低集中力を矯正する手段になるかもしれない。しかし、この速度に慣れてしまうと日常生活での刺激に鈍感になってしまうかもしれない。小さい子に新幹線の車窓から景色を見せるのはよくないらしいけれども、このゲームのようなハイスピードのゲームをたくさんやらせるのも同じようによくないかもしれないな~と思う。

 全体的に未成年の子どもに与えるのはよくないなと思った。甥っ子がねだってきても買ってあげないようにしようと思う。僕は大人なので、これからも友達といっしょにやろうと思う。結構面白いので。

いつのまにやらスーパー配置換

 最近は仕事の忙しさが半端ではなく、スーパーへ買い出しに行くのも自分の脳と体が嫌がってコンビニご飯やファストフードばかりになってしまっている。健康的な生活をすることで仕事への活力を養い、現業以外の能力形成への活力も同時に得ていこうというお気楽なストーリーは現実の前にもろくも崩れ去った。順番が逆だったみたい。仕事で疲れ果てて何にもやる気が起きないと、健康とか活力とかそんなもんどうでもいいから寝かせてくれよ~と駄々をこねる脳だったのだ、僕のやつは。こんなことではまたお腹が出て肌も乾燥してしまうので、久しぶりにスーパーへ行って朝食のヨーグルトとかパンとかだけでも買ってこようと重い腰をあげた。嫌がる脳へ叱咤激励して動かそうとするのもまた僕の脳であるという無限ループのような構造に関心しながら(それを感じているのも僕の脳。メタがやばいことに!)、買い出しへ向かう。

 だいたい2週間ぶりくらいに来たと思うんだけれども、料理をする気はさらさらないので野菜コーナーは一瞥もくれずスルー。切らしてしまったコーヒー豆(1杯ずつのドリップ式のやつ)を確保しにいつもの経路を進む。ところが、目的の場所には牛乳をかけて食べるシリアルが並べられている。なんと、確かにパンも飽きてきたのでフルーツグラノーラでも導入しようかと思っていたところだけれども、コーヒーがなくては手が震えて机がこぼれた牛乳だらけになってしまう。それは盆には戻せないから困ってしまうよ。突然の変化に思考も明後日の方角へ飛んでしまうなか、まわりを見回すと、どうやら全体的に商品の配置を変えたらしい。ドレッシングは缶詰に、製菓材料がコーヒーになって、なぜかヤスダヨーグルトは一回り小さくなっていた。

 ヨーグルトの製品としての在り方と配置は関係なくない?なんで?と思ったけど実際小さくなってしまっているのは受け入れるしかない。仕方がないので他のやつを買っておく。変化に弱い僕にはなんとも高負荷なスーパーへの買い出しであった。

手作りのご飯が肌にいい

 炊き立てのごはんが大好き。できたら毎日ごはんを炊いて食べたい。最近は残業ができなくなったり、在宅勤務だったりで時間があるのでごはんを炊いておかずをつくることができるのでとてもよい。お腹がすいているときに食事を用意するのはとても楽しいし、添加物の量が減ったせいか肌の調子がとてもよい。

 かゆみとか湿疹がきれいになくなってきたので、人生でも最高の状態で生活ができている。たまに面倒くさくて保存性の高い食品を食べるとすぐにかゆみが出て湿疹ができてしまう。これまで当然のことというか、所与のこととして甘んじていた肌の問題だったけど、食べるものがこんなにも影響していたとは思わなかった。こうなると口にするものはことごとくどんなものが含まれているのか確認したくなるし、添加物の多そうな食品はなるべく食べたくないと思えてくる。自分の体質が心底面倒だなと思うとともに、アトピーや食物アレルギーをもつ子どもがいる親の心労が少しわかったような気がする。自分の親もそうであるのだけれども、食事を用意することだけでも大変なのに、どんな成分が含まれているのか逐一確認するのがどれほど大変であるか。ありがたいことだなぁ、と思う。

 そんなこともあるので、ごはんを作っているとQOLがとても上がっているなと実感する。たしかに収入は多少減っているけれども、幸いに生活はしていけるし、仕事もちゃんとできている。時間に余裕があるから興味のあることを調べたり、本を読んだりして、こんなに充実した暮らしはこれまでになかった。世間はとても良い状態とはいえないけれども、自分個人の生活を考えると今がとてもいい感じ。せっかくならこの状態を今後も続けていきたいな~と思う。

 平常であれば、うちの会社ではまずやらないであろう在宅勤務を急遽導入していろいろとやりづらいところはある。けれど、これを機に働き方を多様化して、仕事もきっちりとやりながら、余裕のあるよい生活を送ることができたらいいなと思う。なんせこんんなに肌がすべすべでかゆくないことなんて今までなかったんだから!この感動を味わうことができるのはあの苦しみを知っているからこそ。こうして幸せを感じることができるのはなんともありがたいことだなぁ、とあらためてかみしめてみるのでした。

自作マスク

 個人的にマスクをすることが好きでないので、咳がとまらないなど必要なとき以外はマスクを着けていない。今回のウイルス対策についても、あらゆる感染対策をしたときのマスクの寄与率がたいそう低いと判断して普段は着けていなかった。

 しかし、会社からマスクの装着を徹底せよとのお達しが出てしまい、渋々ながらマスクを使用することにした。ところが、マスクの備蓄などないし薬局にいっても在庫などひとつも残っていない。こんど市のほうから斡旋販売があるらしいけれども、一家庭に7枚だけだという。いつまで続くかもわからない感染対策生活のなか、使い捨てのマスク数枚では十分とは言い切れない。いや、100枚あっても半年も持たないのだから、現状は絶望的と言わざるを得ない。このままではバンダナを巻いて列車強盗のような姿を晒しながら仕事をしなければならなくなるため、自分でマスクを作ることにした。

 そこでマスクの材料を調達にでかけた(このあたりで矛盾した気持ちを抱くけど仕方ないので)ところ、ガーゼや不織布も軒並み売り切れとのこと。確かに最近は手作りのマスクをしている人をちょくちょく見かけてはいたけど、ここまでとはね。せっかくなのでお菓子などを買いつつ、やわらかめのゴムだけなんとか手に入れておうちへ帰った。

 既製品はまず手に入らず、入ったとしても足らず、材料も枯渇しているなか、装着することを強く求められ続ける。期限はわからない。よもやマスクがここまでの理不尽さをもって自分の身に迫りこようとは夢にも思わない。いや、マスクはないので迫ってこれないのではあるが、自分の追い詰められ感がそう感じさせる。そのへんの人たちはみんなマスクをしているけれども、いったいどこから仕入れてきているのか不思議でならない。

 とはいえマスクを着けないと怒られてしまうので、なんとかしなければならない。背水の陣で頭を捻ったところ思いついた。そういえばボロッボロになったジーンズがあったので、そいつをリメイクすればよいのではなかろうか。日本人の美徳である「もったいないの精神」も満足できるし、なんか見た目も良さそうなので三方丸く収まりそう!さっそく使い終わった使い捨てのマスクから型紙を作り、10年ぶりくらいに裁縫セットを取り出して制作開始。

 古着のリメイクなんて初めてやったので、想像つかなかったことがいっぱいあった。簡単にあげてみるとこんな感じ。

 ・ハサミで布を切ると糸くずがいっぱい出てくる
 ・針に糸を通すのが大変
 ・”中表”など、完成形とは違う途中形態に慣れないのでミスを頻発
 ・間違えたやつを直すのが本当に嫌(新しく作る方がマシ)
 ・必要な糸の長さがわからないのでとりあえずたくさんとるとやりにくいし余る

 などなど、他にも落としたまち針を拾おうとして指に突き刺したりしながら、2~3時間ほどかけてやっとひとつ完成させた。ぜんぶ手縫い、本返し縫でこれくらいだった。ミシンがあったら30分もかからないかなと思う。実家に足踏み式のやつがあったけど、帰省もするなと言われているからなぁ。とことん理不尽なことだなぁ、としみじみ理不尽さを噛みしめる。こんなに八方塞がれることもそうそうないので、めずらしい経験になったかなと思う。

 できたマスクはなかなかいい感じ。苦労して作ったから愛着もあるし、思った通り見た目も悪くない。これなら着けるのも嫌に感じないね。使い捨てのマスクを使い続けるのは衛生的にもあまりよくないから、着なくなった服なんかをマスクにするのも、時間つぶしになるしいいな~と思いました。

減価償却

 業火滅却ではない。
 会計処理のひとつである減価償却。会社の経費でモノを買った際、一定額以上の固定資産である場合はこれが適用されると通達を受けた。素人にいきなりそんなことを言われてもわからんので、さっそく調べてみる。そしてそんなものは僕に関係ないよねぇ、と思いきや意外なところで使えそうな気もしてくる。

そもそもどういうルール?

 工作機械などの高額資産を導入する場合、法律で定められた年数で支出を分割し計上していくこと。計算方法には、平たく言うと単利と複利のような2種類がある。単利のほうを定額法といい、耐用年数で購入代金を割り、毎年同額ずつ償却する。例えば、1,000万円で耐用年数10年の固定資産を購入した場合、1,000万円÷10年=100万円/年ずつを10年かけて償却することになる。複利のほうは定率法といい、未償却の金額に一定の利率をかけて償却していく。めちゃくちゃざっくり言うとこんな感じ。細かいルールは面倒なので省略していく。

なぜそんなことをするの?

 企業が資産を導入する場合、その目的は新たな価値を作りだすことにある。工作機械の場合、工場などに設置された機械が製品(価値)を作ることによって企業に利益をもたらす。減価償却を使わない場合、資産を購入した初年度は大きな支出が生じるが、その後は0になる。しかし、その資産は価値を生み出し利益を創出し続けるので、費用と収益の対応関係が取れなくなってしまう。これにより、企業の収支の実態が見えづらくなってしまうのを防ぐために、上述の方法をとる。また、毎年減価償却を費用として計上するので、税制的にも有利となる。

だからなんだってんだ?

 つまるところ、減価償却の思想は「購入した資産がその年に価値を生み出すために使用した分の費用を毎年計上する(使い切るまで)」ということになる。ふむふむ。で?経営者にとっては大事なことなのかも知れないけどね、まだまだお金の流れにはアンテナ張り切れてませんわ~。といった具合に記憶の倉庫へしまい込みそうになっていた矢先、買い物中のふとした瞬間にこいつが使えそうな予感が…!

今週の食費高…いや待て、これは…!

 週末に買い物へ出かけ、その週の食物をひと通り購入する。大体1週間で5千円、月2万円の予算でうまくいっている。しかし、3か月に1回くらい2万円を超えてしまう高円ゲル係数月が発生してしまう。いったいなぜ?ステーキを焼きすぎたのか?ナチュラルチーズを衝動買いしすぎ?鳥ハム作り置きしすぎ?タンパク質とりすぎ?考えてもまったくわからない。家計簿つけとけばよかったな~と思いながら、思っているだけの毎日。そんな日々に甘んじているなか、今日の買い物でとうとう気づいた。
 米、麺、調味料だ。たまたまいっぺんにきれてしまったこれらをいちどに買ったところ、レシートを見て冷汗がでてしまった。今月は梅干しで乗り切るしかないのか、と赤貧生活を覚悟しかけたが、いや待て!これまでだって同じようにものを買ってきたんだ、なにかがおかしい…。そこで買ったものをよく見れば、そうか!僕は3か月分の食料や調味料を今日まとめ買いしている。それを今週の支出としているから見かけ上買い過ぎているように見えるだけなんだ。試しに4週×3か月=12週でそれぞれの単価を割れば…うん、妥当!

食べる分だけ減価償却

 これまで、2万円を超える月とそうでもない月でトントンだからまぁいいか、としてきた。しかし、数か月にわたって消費する食物を、食べた分だけ支出として計上すれば毎月安定した支出となる。この上エンゲル係数が上下することがあれば、突発的な要因があるはずなので的確なフィードバックがはたらくはずだ。めっちゃ理にかなってる。減価償却、そういうことねぇ。家計を営むという意味では僕も経営者。やっぱり役に立たない知識なんかないんだな~と思う。いや、知識が役に立つというより、知識を役立てるのが人間なんだなと改めて納得する。たいしたもんだよ、脳みそってやつぁ。