「何が言いたいの?」という顔面パンチのような言葉

 同期が言われている場面にちょくちょく出くわす。自分も言われてしまったことがあるけれど、これを言われるとめちゃくちゃ焦ってさらにわけのわからないことを口走ってしまうので、新人と呼ばれる人たちにとってはきつい一発なんだよね。

 似たような言い方で「ちょっと意味が分からないけど、~」というパターンもある。こちらは相手がそのまま言葉を続けるので、めちゃくちゃ焦って変なことを言うことはない。けれど相手が落ち着いていればいるほどなんだか惨めな思いがして傷つくので、ダメージは負けず劣らずでかい。

 言われる側としてはすごくしんどいので、なんでそんな言い方しかできないのか、と思ってしまう。しかし、一歩退いて考えるてみると、そんな言い方をさせてしまったととらえることもできる。自分の説明の仕方を振り返ってみると、確かにわかりにくいし余分な情報が多かったな~と思えるところがあったりする。

 要は開き直ってしまえばよいということである。確かに自分の説明はわかり辛いし伝わっていなかった。申し訳ない。だからもう一回聞いてくれ!という気持ちでゆっくり落ち着いて説明しなおせばよいのである。案外笑って「すいません!え~っとぉ…」みたいな感じでやり直せばちゃんと聞いてくれる。焦ってグダグダするよりお互いに気持ちがいいものだ。

 しかし、さわやかさを欠いてしまうと逆に相手をイラつかせてしまうので注意が必要。やはり若さというのは武器なんだなぁ。いずれ新人のフレッシュさも失われて、「いつまでもへらへらして済んでくと思うなよ。」とか言われるのではなかろうか。ていうかそういう歳になってちゃんとコミュニケーションも取れないんじゃ終わりなような気もする。

 平安時代の貴族は、当意即妙な和歌を詠むことが出世の必要条件であったという。現代でもそれは根底にあって、いかにその場に即したことを端的に伝えられるかという能力ができる人にとって必須なんだろうなと思う。適度なユーモアを交えながら最後にはみんなをうなづかせる。そんな口達者になりたいものだね。

雑記:通勤のルーティン

 最近、朝の電車に同期の人がひとりいる気がする。その人は違う駅の寮にいるはずなので、これまでももちろんいない人だったのだが。この前チラッと見かけた気がしてからずっといる気がする。気がするというと変な感じだが、はっきりと見て挨拶をしたわけではないので、いるかもな~くらいの感じなのである。意識的にいるような気がするゾーンを視界から外しているのだ。目があったりしたら挨拶しなくてはならないし、お互いの存在を無視できなくなってしまう。

 朝の駅というのは非常に規則的で、ほぼ毎日同じ顔ぶれがそろっておりなおかつ同じ配置についている。僕はそんなおなじみの人々が毎日同じ行動をとりつつも少しずつ変化しているところを見て無常を感じるのがとても好きなのである。祝日とかでいつもの人たちがいなくなると大変に不安な気持ちになってしまうほど、ルーティンをこなす人々を見るという僕のルーティンは重要なのだ。

 もしそこに同期が入ってきたとしたら。大変なことではないか。毎日なにかしらの中身のない話をして、朝の重要な時間を無為に過ごしてしまう羽目に陥ってしまう。これはとんでもない損失なので、できる限り避けなくてはならない。もしも何かのはずみでお互いに気が付いて(実際はすでに気が付いているが)しまったら、電車の時間を変える必要があるかもしれない。そうなったらまたいちからいつもの人々を脳内に構築しなくてはならない。それはそれで面白いが、進んで実践したい状況ではないのだ。

 そしてよく考えたら、むこうからもこちらに声をかけてこないということは、僕と同じことを考えているのかもしれない。地球上に人類が76億人いるにしても、考え方にしたらそうそう違いはないものではないか。だとしたらこれは、お互いに気が付かないふりをするということでお互いの同意がとれているということである。目くばせも交わさず、ただ気配を感じることのみで成立するコミュニケーションである。これが察するということなんだね。さすが日本人だなぁと思う。

雑記:五月病ひいて流るる梅雨の雨

 久しぶりに同期の人たちと話したら、なんだか疲れているようだ。それもしょうがない。会社で働くのは大変なことだからね。特に大きい会社になると、もうすでに出来上がっている仕事を出来上がっているやり方で進めていかなくてはならないから。まずは会社の文化と仕事のやり方を覚えていかないといけない。ここで主体性を失うと先が見えなくなって不安になったり、やる気が出なくなってしまうんだよね。

 でもよく考えたら、先輩の一挙手一投足をすべて真似ているわけではないし、長い年月をかけて先達が作り上げた仕事の流れを読み解いていくと考えればなかなか面白いのではないかなと思う。

 ところで、表題の俳句をよく見てみると、もしかしたら五月病と梅雨が二重の季語になってしまっているかもしれない。五月病は季語なんだろうか。特に調べたりはしないが。ちなみに意味合いとしては…五月病にかかって(ひいて)、それが治らないまま流れ流れて梅雨に入ってしまった。というふうにもよめるし…五月病がだんだんと薄らいで(引いて)きて、それを流すように梅雨の雨が降り始めた。というようにもよめる。けっこうよくできたかなと思う。

雑記:腕時計を忘れる

 今日は時計を忘れてしまった。朝家を出て、駅の前まで来てから気付いた。取りに行こうと思えば行けたけど、面倒なのでまあいいかとそのまま出社してしまった。おかげで一日何度も時計を見ようとして、あっ、そういえば無いんだったと気付くという意味のない行動をしてしまった。おかげで毎日無意識的に時計を気にしていることに気づいてちょっと感心した。

 時間帯にもよるが、およそ15分に一度程度は時計を確認する癖がついているようで、パソコンや壁時計なども頻繁にチラ見している。たぶんほかの人たちも同じような感じだと思うのだけれど、いったいなぜこんなに時間を気にしているのか、それが気になる。今も画面右下の時計を見てしまった。たぶんそろそろ寝る時間なので、あと何分くらいで今日の日記を書き上げようか気にしているのだろうと思う。自分のことなんだけれど、無意識なので推測である。また見た。なんだか他人の行動を見ているようで面白い。離人障のようなことを書いているがそういうわけではない。訓練されたメタ認知である。ということにしておく。

 もうすぐ寝なきゃ、とか会議の時間が、とか思っているとやはり脳にストレスがかかり、時計を見るという常同的な行動を起こさせるのだろうか。陸上部だったころに、大会前にはあくびが増えることがあったけどそれと同じようなことなのだろうか。だとしたら、まったく時間に縛られることなく、この瞬間から未来にかけてのすべての予定が自分の思うがままになるような生活をしていたら、時計を気にすることが無くなるのだろうか。願わくばそんな生活を送ってみたいものである。

 日が昇ったら起き、お腹がすいたら食べ、なにか心の向かうことをして、夜になったら眠る。なんという怠惰な生活だろう。あんまりいいとは思えないな。やはり少しくらいは時間を気にしたほうがいいだろう。近所の子どもが帰ってきて、なんだもうそんな時間か、といった具合に時が過ぎるのを思い出す。そんなくらいがちょうどいい気がする。どうしたらそんな生活が送れるのだろう。ぴかぴかの高い時計を買いだすようになる前に、方法を見つけたいものだ。

雑記:宣言をして自分を追い込む

 ブログを作ったら毎日更新しよう、と思っていたのに3日に1回とかになってしまっている。最初だからまあいいか、と自分をごまかしていたけれど、最初が肝心という考え方もある。習慣としてやっていかなければどこまでも怠惰に陥ってしまうのが僕という人間であるから、ここいらで気合を入れなおす必要があるだろう。今日から毎日何かしら書くことを自分に課したい。

 あと、お腹が出てきているのも非常に気になる。あれほど引き締まっていた体は一体どうなってしまったのか。代謝によって体の細胞は入れ替わっていくのだけれども、聞いたところおよそ3ヵ月ですべての細胞が入れ替わるらしい。すなわち、あの時のカモシカのようだった僕の体はもう存在していなくて、いま動かしているのはこの前食べたピザとかからできている「増量型」の体なのである。このことをはっきりと認知するのは非常に恐ろしいが、認めねばなるまい。若さゆえの過ちというやつかもしれない。

 しかし、ここで発想を変える必要がある。体が変わってしまったということは、これからも体は変わっていくということに他ならない。およそ3ヵ月で丸っと交換である。そうであるならば、意識的に変化を方向付けてやればよいのだ。別に誰に見せるわけでもないが、美しい体をつくっていきたい。これからは暑くなっていくので、外で運動するのは嫌だし危険ですらある。よって涼しくなるまでは筋トレに精をだすことを自分に課したい。

 ということで、今日は2つの課題を自らに与えた。
1、毎日ブログを更新する。
1、毎日筋トレをして美しい体づくりをする。
ついでに週末くらいは部屋の掃除をしようかな。のんびり頑張っていきましょう!

雑記:頭の良い子どもたち

 帰宅途中の電車の中で小学校3~4年生くらいの子どもたちと乗り合わせた。おそらく塾の帰りだと思うのだけれども、勉強をたくさんしているのだろうな~という雰囲気をまとっていた。こんな小さな頃から夜遅くまで勉強して、電車に乗って帰るなんて大変だなぁと思う。

 公共の場という意識に疎い彼らが大声でわめいているのを聞いていると、少し気になる言葉が出てくる。「偏差値」である。こいつの偏差値はどうだのこうだのと言っている。なんとも気持ちの悪い思いがした。この年頃でもう人を数字で評価する方法を覚えているとは。

 数字で評価といえばテストの点も同じではないかと思うが、僕の感覚では少し違う気がする。テストの点数はあくまでそのテストの出来具合を表しているのであって、一週間もすれば忘れてしまう。しかし、偏差値というのはその人そのものの出来具合を評価しているように感じられ、何年もの間ついてまわる。「あなたの偏差値は?」と聞きあう様はあたかも名刺を交換するが如く、最早アイデンティティをの中核を成すと言っても過言ではないように思える。

 もちろん数字というのは科学的に正しく導出されているから、何かしらを量るのに大変便利で強力な道具である。しかし、それは極限られたもの、一面的なものを表しているに過ぎないことを、ちゃんと理解していなければあらぬ誤解を生みかねない。素晴らしい人間性と才能を持った人が、偏差値の低さに悩みいらぬ心労を重ねるなど想像にたやすい。そういったことをわかるには、小学生というのは若すぎるように思うのだけれども、これは自分が彼らを見くびっているが故なのだろうか。

 僕には自分の子がいないけれども、身近にいる子どもたちには、数字では表すことのできない、人として大事にすべきことを伝えていきたいと思った。

雑記:manplaining

 man(男性)+explaining(説明すること)でmanplainingということらしい。意味合いとしては、男性が女性を見下すあるいは偉そうに何かを解説すること。ネットで検索すると、およそ10年前にアメリカで使用されたのが始まりだそう。大したことでもないのにしたり顔で解説をする男性から嫌な思いをさせられた女性の間で共感が得られ、広まっていったみたい。

 たしかにおじさんの中には、何かのきっかけを見つけるとすかさず豆知識というか、蘊蓄を披露したがるひとがいたな、と思う。男性である僕にも覚えがあるけれども、それは子どもの頃の記憶であると思う。おそらく女性や子どもは無知で、ものを深く考えないという思い込みを持っていて、そういう人に知識を与えてやっているという感覚が心地いいのだろうと思う。面白いことを教えてくれるのなら歓迎するけれど、どうでもいいことを延々聞かされるのは苦痛だし、それで偉そうにされるのはたしかに癪にさわるよな、と思う。

 ここで自分を振り返ってみるとどうか。30近くになった男性だし、偉そうに解説しだしたりしていないだろうか。たぶん、しているときがあるような気がする。ただし、女性に限らず男性に対しても同様に解説する。誰彼構わず、というわけではないけれども、親しい人ほど機会が増えるかもしれない。そういうとき、自分がどういうわけで小難しいことを喋り倒しているのかを考えてみると、たぶん自分の解説を自分で聞くのが気持ちいいからだと思う。自分の持っている理論を外に出すことはかなりの快感になるし、それで他人から感心されればなおさら気持ちがいい。子どものときから積み重ねてきたこの快感を今さら手放すことは決してできないだろう。あと、気軽に議論がしたいという欲求もあるように思う。自分の発言に対して何か反論があったりするとテンションが上がる。別に相手を言い負かしたいとかではなく、スポーツ感覚でお互いの弁論を戦わせたいと思ってしまう。

 僕はあまり女性と、というか他人とプライベートな会話をする機会がないのだけれども、manplaining的感覚からしてどのようにとらえられているのかちょっと気になってしまう。相手の様子をよく見て、話すように心がけようかなと思う。それか、いっそのことコミュニケーションを諦めて自分のやりたいようにふるまうことを良しとしてしまおうか…と、その考えが人目を気にしなくなる悪い中年が始まっていることを告げているような気がしたので、反省して布団に入ろうと思った。

雑記:フォンダンショコラ

 今日は帰りが遅くなったし、週末で面倒くささもMAXなので、久しぶりにピザでもとろうと思い、とったのである。

 メニューにフォンダンショコラがあったので、注文してみる。こういう中からトロっと出てくる系のお菓子はアメリカの人が好きなイメージがある。あと、チョコレートでドーム型の器みたいなやつに熱いキャラメルをかけて溶かす系のお菓子とか。どちらかというと動的な美意識のあるお菓子が人気なイメージ。和菓子は静的な感じがするよね。

 と思ってフォンダンショコラを食べて本当に、驚くほど不味くてどうしようかと思った。一瞬吐き出そうかと思ったくらい。なんというか、何かしらミスがあっとのでは?と疑わずにいられないような違和感。最後の最後までそれがつづくつづく。なんだか悲しい週末となりました。

雑記:もう木曜日か…

 最近時間が過ぎていくのがものすごく早く感じられる。最近というのもここ1か月くらいのことなんだけれども。とにかく1日があっという間に終わってしまう。それもこれも仕事がめちゃくちゃ忙しくて、残業も無いのにやることは山のようにあるからなんだな。できることを片付けていって、次のことを片付けていたらまた新しいことが出てきて…。そんなことをやっていると瞬きする間に午前中が終わり、午後はいろんな人とコミュニケーションをとっていると夕方になってしまう。定時過ぎてやっと自分のことができる、となるけどまだ残業ができない身分なので急いで帰るのである。厳しいね。

 そんな日々を送っていると、週一のミーテイングを昨日やったかのような感じがするようになってびっくりする。1週間分の進捗があったのだろうか…。頑張っているからいいでしょ。とはいかないのが会社なので、とにかく必死である。大人になると早く歳を取るというけれど、この感覚だったらそりゃ矢の如く月日が流れて頭の雪も積もりにけりとなろうよ。いとをかし。

 働くって大変や。おじいさんやおばあさんがもっと大変な時代を乗り越えてきたんだと思うと、素直にすごいなぁと思うよ。自分も一生懸命生きていかねばね。やったるで!

雑記:ダイモンの囁き

 古代の人々にとって神や悪魔といった超自然的な存在は、現代に生きる僕らよりもより身近な存在であったという。身近というと曖昧なような気がするが、すなわち存在するのが当然であり直接的に私たちの生活に影響を及ぼすようなものであるということ。現代の僕らでいうと、太陽系とかウイルスとかホルモンとかそういうものに当たるのではないかなと思う。実際に見たり感じたりしているわけではないけれども、本で読んだり医者から説明を受けて「なるほど確かにそうらしいな。この検査の数字を見てもそれなら納得だ。」といった具合にストンと腹落ちしている。科学という強力な思考手段がなかった時代の人々には、これらの代わりに精霊や神あるいは悪魔が、ありありとその存在感を持って関わってきていると感じられたのだろう。

 古代ギリシャでは、ダイモンと呼ばれる存在があったという。英語のデーモン(悪魔)の語源であることが推察されるが、特に邪悪なものではないらしい。あまり詳しくは知らないので適当ではあるが、内なる声とでも訳しておくのが適当かもしれない。何かを行うとき、自分の奥底から聞こえてくるダイモンの声に耳を傾けるのである。そうして生活の指針を得るのが、当然のこととして営まれていたらしい。何か瞑想と似たような感じもするが、自分の中から沸き起こってくる声を自分ではない何かの囁きととらえるところが西洋っぽい感じもする。

 よくわからないことをつらつらと書き並べている。結局なにが言いたいのかというと、僕も週末になるとダイモンの囁きが聞こえるということである。語弊があるといけないので述べておくが、誰かの声が聞こえているわけではない。なんというか、頭で考えている行動計画があるのだけれど、結局自分の奥底から沸き起こる囁きに従って大きいクッションに身を横たえ、本を読んだりゲームをしたりしてしまうのである。かと思えば「行くよ!」みたいな囁きがきてその辺を散歩がてら歩きつつ、架空のディベートを脳内シミュレーションしたりするのである。実に脈絡がない。本当は映画を見に行ったり服を買いに行ったりしたいと思っているはずなのに。しかし、この囁きには逆らい難い大きなエネルギーを感じるのだ。社会で役割を果たすために強力に作り上げた自我が、抑え込んでいる心のエネルギー。寝ているときなど、自我が弱まっているときにひょっこりと顔を出す。自分の心からあふれ出すエネルギーに耳を傾けると、ダイモンの囁きが聞こえるのである。