読書:天才と発達障害

 文春新書。著者:岩波明、「天才と発達障害」。
中世から現代にいたるまでに存在した天才を題材とする映画、小説、漫画やドラマは国内外問わず多く存在している。そういった作品の中に見る天才たちは、その業績からは想像もつかないような突拍子もない人生を描かれていることが少なくない。現代ではいわゆる発達障害や人格障害に関する知識も世間に広まり、凡人でいられない天才たちのそのような性質について、認識を新たにする機会も多い。そんな今日この頃、上記の本を見つけたので読んでみようと思い読んだのである。

 僕が期待していたのは、脳の基質的なユニークさが社会生活における障害として現れ出ると同時に、常人にはとても真似できない特別な才能をいかにして得さしめるのかを科学的に書いてあるようなものであった。しかし、本書はいわゆるケーススタディを通して、どうやら天才には発達障害や精神病的な素質と小さくない相関があるようだと示唆するにとどまっている。歴史上に存在する天才たちが持っていたそのような性質を次々とあげつらっているが、それと彼らが成した偉業との因果関係についてはブラックボックスである。

 確かに発達障害などは診察の基準も難しく、信頼できる精度の研究をしようと思うと非常に難しいであろうから、このように多くの例を集めて一般性を得ようという帰納的な手法は有効であると思う。しかし、そのような相関がいかにして現れ出ているのかを、やはり根源から解明し理解したいと思うのが人情というもの。今回得られた様々な天才の事例から発展して、より一般的な研究についても調べてみたいと思う。アメリカではかなりの資本を投入して脳科学の研究が進められているらしいし、今後の動向に期待していきたい

技術:自動運転

 日経新聞の電子版を見ていたら、改正道交法で自動運転のルールが整備されたとのこと。技術的な問題よりも法整備が遅れることが自動運転普及の足枷になるのではないかと思っていたので、実用化に先駆けてルール作りが進むのは良いことだと思う。

 ところが、記事に書かれている内容を見るとあまり良いとは言えないように感じる。かいつまんで見ていくと、まず自動運転中に携帯電話などを操作してよいとある。これについてはルールとして必須であって、自動運転を実用とするには不可欠だと言える。なぜなら、車が勝手に目的地に向かって走っていくのに、ずーっとハンドルを握って前方注視を続けることなど不可能だからだ。必ず眠くなるし、集中しなくなる。このことは実験でも確認されていて、自動運転と運転補助とを明確に区別する必要があることの根拠となっている。

 非集中状態がルールとして許容されたのは良いが、これには条件がある。道路の種類や天候など、ある一定の条件下で、かつ緊急時にはドライバーが運転する。これはいただけない。高速道路や都市の一部のみで、運転技能のあるものが必ず乗車いていなければならない自動運転などほとんど意味がない。本当に自動運転を必要としているのは、田舎住まいのお年寄りなど、運転はできないが交通手段として自動車を必要とする人々だからだ。

 やはり自動運転などまだまだ先の話なのか、と現実に引き戻されてしまった。空飛ぶタクシーもできるみたいなのになぁ。

雑記:宣言をして自分を追い込む

 ブログを作ったら毎日更新しよう、と思っていたのに3日に1回とかになってしまっている。最初だからまあいいか、と自分をごまかしていたけれど、最初が肝心という考え方もある。習慣としてやっていかなければどこまでも怠惰に陥ってしまうのが僕という人間であるから、ここいらで気合を入れなおす必要があるだろう。今日から毎日何かしら書くことを自分に課したい。

 あと、お腹が出てきているのも非常に気になる。あれほど引き締まっていた体は一体どうなってしまったのか。代謝によって体の細胞は入れ替わっていくのだけれども、聞いたところおよそ3ヵ月ですべての細胞が入れ替わるらしい。すなわち、あの時のカモシカのようだった僕の体はもう存在していなくて、いま動かしているのはこの前食べたピザとかからできている「増量型」の体なのである。このことをはっきりと認知するのは非常に恐ろしいが、認めねばなるまい。若さゆえの過ちというやつかもしれない。

 しかし、ここで発想を変える必要がある。体が変わってしまったということは、これからも体は変わっていくということに他ならない。およそ3ヵ月で丸っと交換である。そうであるならば、意識的に変化を方向付けてやればよいのだ。別に誰に見せるわけでもないが、美しい体をつくっていきたい。これからは暑くなっていくので、外で運動するのは嫌だし危険ですらある。よって涼しくなるまでは筋トレに精をだすことを自分に課したい。

 ということで、今日は2つの課題を自らに与えた。
1、毎日ブログを更新する。
1、毎日筋トレをして美しい体づくりをする。
ついでに週末くらいは部屋の掃除をしようかな。のんびり頑張っていきましょう!

雑記:頭の良い子どもたち

 帰宅途中の電車の中で小学校3~4年生くらいの子どもたちと乗り合わせた。おそらく塾の帰りだと思うのだけれども、勉強をたくさんしているのだろうな~という雰囲気をまとっていた。こんな小さな頃から夜遅くまで勉強して、電車に乗って帰るなんて大変だなぁと思う。

 公共の場という意識に疎い彼らが大声でわめいているのを聞いていると、少し気になる言葉が出てくる。「偏差値」である。こいつの偏差値はどうだのこうだのと言っている。なんとも気持ちの悪い思いがした。この年頃でもう人を数字で評価する方法を覚えているとは。

 数字で評価といえばテストの点も同じではないかと思うが、僕の感覚では少し違う気がする。テストの点数はあくまでそのテストの出来具合を表しているのであって、一週間もすれば忘れてしまう。しかし、偏差値というのはその人そのものの出来具合を評価しているように感じられ、何年もの間ついてまわる。「あなたの偏差値は?」と聞きあう様はあたかも名刺を交換するが如く、最早アイデンティティをの中核を成すと言っても過言ではないように思える。

 もちろん数字というのは科学的に正しく導出されているから、何かしらを量るのに大変便利で強力な道具である。しかし、それは極限られたもの、一面的なものを表しているに過ぎないことを、ちゃんと理解していなければあらぬ誤解を生みかねない。素晴らしい人間性と才能を持った人が、偏差値の低さに悩みいらぬ心労を重ねるなど想像にたやすい。そういったことをわかるには、小学生というのは若すぎるように思うのだけれども、これは自分が彼らを見くびっているが故なのだろうか。

 僕には自分の子がいないけれども、身近にいる子どもたちには、数字では表すことのできない、人として大事にすべきことを伝えていきたいと思った。

雑記:manplaining

 man(男性)+explaining(説明すること)でmanplainingということらしい。意味合いとしては、男性が女性を見下すあるいは偉そうに何かを解説すること。ネットで検索すると、およそ10年前にアメリカで使用されたのが始まりだそう。大したことでもないのにしたり顔で解説をする男性から嫌な思いをさせられた女性の間で共感が得られ、広まっていったみたい。

 たしかにおじさんの中には、何かのきっかけを見つけるとすかさず豆知識というか、蘊蓄を披露したがるひとがいたな、と思う。男性である僕にも覚えがあるけれども、それは子どもの頃の記憶であると思う。おそらく女性や子どもは無知で、ものを深く考えないという思い込みを持っていて、そういう人に知識を与えてやっているという感覚が心地いいのだろうと思う。面白いことを教えてくれるのなら歓迎するけれど、どうでもいいことを延々聞かされるのは苦痛だし、それで偉そうにされるのはたしかに癪にさわるよな、と思う。

 ここで自分を振り返ってみるとどうか。30近くになった男性だし、偉そうに解説しだしたりしていないだろうか。たぶん、しているときがあるような気がする。ただし、女性に限らず男性に対しても同様に解説する。誰彼構わず、というわけではないけれども、親しい人ほど機会が増えるかもしれない。そういうとき、自分がどういうわけで小難しいことを喋り倒しているのかを考えてみると、たぶん自分の解説を自分で聞くのが気持ちいいからだと思う。自分の持っている理論を外に出すことはかなりの快感になるし、それで他人から感心されればなおさら気持ちがいい。子どものときから積み重ねてきたこの快感を今さら手放すことは決してできないだろう。あと、気軽に議論がしたいという欲求もあるように思う。自分の発言に対して何か反論があったりするとテンションが上がる。別に相手を言い負かしたいとかではなく、スポーツ感覚でお互いの弁論を戦わせたいと思ってしまう。

 僕はあまり女性と、というか他人とプライベートな会話をする機会がないのだけれども、manplaining的感覚からしてどのようにとらえられているのかちょっと気になってしまう。相手の様子をよく見て、話すように心がけようかなと思う。それか、いっそのことコミュニケーションを諦めて自分のやりたいようにふるまうことを良しとしてしまおうか…と、その考えが人目を気にしなくなる悪い中年が始まっていることを告げているような気がしたので、反省して布団に入ろうと思った。

読書:謎解き 聖書物語

 最近宗教学に微小な興味を覚えるので、タイトルを見て買った本。ちくまプリマー新書「謎解き 聖書物語」著者:長谷川修一。聖書といえばキリスト教やユダヤ教の聖典であるけれど、ゲームや漫画、映画などのモチーフとして使用されることも多い。一種の読み物として一度目を通しておきたいけど、いちから自分で理解していくのも大変だな~、と思っているいるところにこのタイトルが目に入ったので、即買いである。般若心経とか正信偈も同じような感じなので、いい本がないか探し中。

 さて、楽しみに読んでみると、どうも思っていたような内容ではないようである。というか、僕の求めていたようなものではなかった。聖書の内容や物語の解説というよりも、聖書そのものの成り立ちや役割を歴史的観点から見ていくような感じ。まさに宗教学といったところで、聖書というものを客観的にとらえて分析している。人類誕生の謎を説明する創世記から始まり、神との契約、奇跡、戒律など聖書に記述されている事柄は人々の生活とアイデンティティの基盤である。しかし、人間である誰かがそれを書いたことは紛れもない事実であり、そうであるならば何か伝えたいメッセージや思想があるはずである。当時の民族に伝わる説話や文化を吸収しながら、激動の時代を乗り越えるための知恵としれ形作られた聖書。中学や高校で習った世界史の知識が脳の奥底からよみがえってきて非常に面白かった。

 といっても、僕が探していたのは聖書の物語をわかりやすく解説してくれるようなやさしいシスターのような本だからね。ちょっとがっかりしてしまったのでした。

雑記:フォンダンショコラ

 今日は帰りが遅くなったし、週末で面倒くささもMAXなので、久しぶりにピザでもとろうと思い、とったのである。

 メニューにフォンダンショコラがあったので、注文してみる。こういう中からトロっと出てくる系のお菓子はアメリカの人が好きなイメージがある。あと、チョコレートでドーム型の器みたいなやつに熱いキャラメルをかけて溶かす系のお菓子とか。どちらかというと動的な美意識のあるお菓子が人気なイメージ。和菓子は静的な感じがするよね。

 と思ってフォンダンショコラを食べて本当に、驚くほど不味くてどうしようかと思った。一瞬吐き出そうかと思ったくらい。なんというか、何かしらミスがあっとのでは?と疑わずにいられないような違和感。最後の最後までそれがつづくつづく。なんだか悲しい週末となりました。

雑記:もう木曜日か…

 最近時間が過ぎていくのがものすごく早く感じられる。最近というのもここ1か月くらいのことなんだけれども。とにかく1日があっという間に終わってしまう。それもこれも仕事がめちゃくちゃ忙しくて、残業も無いのにやることは山のようにあるからなんだな。できることを片付けていって、次のことを片付けていたらまた新しいことが出てきて…。そんなことをやっていると瞬きする間に午前中が終わり、午後はいろんな人とコミュニケーションをとっていると夕方になってしまう。定時過ぎてやっと自分のことができる、となるけどまだ残業ができない身分なので急いで帰るのである。厳しいね。

 そんな日々を送っていると、週一のミーテイングを昨日やったかのような感じがするようになってびっくりする。1週間分の進捗があったのだろうか…。頑張っているからいいでしょ。とはいかないのが会社なので、とにかく必死である。大人になると早く歳を取るというけれど、この感覚だったらそりゃ矢の如く月日が流れて頭の雪も積もりにけりとなろうよ。いとをかし。

 働くって大変や。おじいさんやおばあさんがもっと大変な時代を乗り越えてきたんだと思うと、素直にすごいなぁと思うよ。自分も一生懸命生きていかねばね。やったるで!

読書:コンビニ人間

 最近本をたくさん読む。通勤に1時間程度かかり、半分くらいは電車に乗っているので、結構いいペースで読書できる。いい本がたくさんあるので、せっかくだし読書感想文を書いていこうかと思う。

 最近読み終わったのは、「コンビニ人間」(著者:村田沙耶香)。第155回芥川賞受賞作らしい。そういえば芥川賞をとった作品を読んだことが無いな、と思い読んでみたのである。

 面白い本だった。主人公の古倉さんは特殊な頭脳を持った女性。行動の基準が合理性に支配されており、人間的な感情に疎い。マイノリティである彼女は、自らの意思をなくす(表に出さない)という合理的判断によって人間社会に適応したかに見えたが、大人になり、より複雑さと曖昧さを増していくヒトの村社会で異分子となっていく。多くの選択肢があり無限の情報が錯綜する現代であっても、「こうするのが普通だ」という常識に当てはまらないのは最早病気であり、果たすべきとされる義務を行わないのは罪なのだ。

 そんな古倉さんが見出した、自分が生きる場所がコンビニである。完全にマニュアル化され、合理性に支配された空間。画一化された売り場、決められた行動、ヒトではなく店員が求められる職場。外から来た客の動きさえ、アルゴリズムによって処理できてしまえる。読んでいるうちに、僕たちの生活に深く溶け込んでいるコンビニが人間性とかけ離れた性質をもって存在していることに気づき、少し寒気を感じた(ちょっと大げさだな)。古倉さんにとっては、これ以上に自分の才能を発揮できる場所はない。いわれた通りに実行し、マニュアルを遂行する。利益を上げるというシンプルな目的に対する合理的行動は何であれ歓迎される。まさに天職であろう。そして、コンビニは存続するために、生物のように代謝する。いつの間にか商品が入れ替わり、人が入れ替わる。店員として異質である人間は排除される。けがや老い、不真面目は排除の対象だ。コンビニというシステムに異物があってはならない。

 最早神なのである。コンビニという、合理性のもとに完成されたシステムを、信仰の対象とまでしてしまう。しかし、それも一面的なものに過ぎない。コンビニを形作るのは人間だ。そこには常に人間性が存在し、支配している。何かをきっかけにそれが表出したとき、コンビニはヒトの村社会に何ら変わりない場所になってしまう。そこでは店員が異物となってしまうのだ。

 長くなるのでこれくらいにするが、自分的にはこんな感じの内容だったなと思う。久しぶりに読書感想文を書いたけど、なかなか難しいな。どうにもスマートにいかない気がする。これから練習して上達していけばいいかなと思う。疲れた。

雑記:ダイモンの囁き

 古代の人々にとって神や悪魔といった超自然的な存在は、現代に生きる僕らよりもより身近な存在であったという。身近というと曖昧なような気がするが、すなわち存在するのが当然であり直接的に私たちの生活に影響を及ぼすようなものであるということ。現代の僕らでいうと、太陽系とかウイルスとかホルモンとかそういうものに当たるのではないかなと思う。実際に見たり感じたりしているわけではないけれども、本で読んだり医者から説明を受けて「なるほど確かにそうらしいな。この検査の数字を見てもそれなら納得だ。」といった具合にストンと腹落ちしている。科学という強力な思考手段がなかった時代の人々には、これらの代わりに精霊や神あるいは悪魔が、ありありとその存在感を持って関わってきていると感じられたのだろう。

 古代ギリシャでは、ダイモンと呼ばれる存在があったという。英語のデーモン(悪魔)の語源であることが推察されるが、特に邪悪なものではないらしい。あまり詳しくは知らないので適当ではあるが、内なる声とでも訳しておくのが適当かもしれない。何かを行うとき、自分の奥底から聞こえてくるダイモンの声に耳を傾けるのである。そうして生活の指針を得るのが、当然のこととして営まれていたらしい。何か瞑想と似たような感じもするが、自分の中から沸き起こってくる声を自分ではない何かの囁きととらえるところが西洋っぽい感じもする。

 よくわからないことをつらつらと書き並べている。結局なにが言いたいのかというと、僕も週末になるとダイモンの囁きが聞こえるということである。語弊があるといけないので述べておくが、誰かの声が聞こえているわけではない。なんというか、頭で考えている行動計画があるのだけれど、結局自分の奥底から沸き起こる囁きに従って大きいクッションに身を横たえ、本を読んだりゲームをしたりしてしまうのである。かと思えば「行くよ!」みたいな囁きがきてその辺を散歩がてら歩きつつ、架空のディベートを脳内シミュレーションしたりするのである。実に脈絡がない。本当は映画を見に行ったり服を買いに行ったりしたいと思っているはずなのに。しかし、この囁きには逆らい難い大きなエネルギーを感じるのだ。社会で役割を果たすために強力に作り上げた自我が、抑え込んでいる心のエネルギー。寝ているときなど、自我が弱まっているときにひょっこりと顔を出す。自分の心からあふれ出すエネルギーに耳を傾けると、ダイモンの囁きが聞こえるのである。