弁当、毛虫、鳥の糞、驚き

今日は父と一緒に柿安でお弁当を買って、九華公園で食べた。このご時世なので、どこかにご飯を食べに行こうとしてもやっていないところが多い。外でお弁当を食べるのが感染対策的にもいちばんいいんじゃないかな~と思う。けっこう歩きに来ている家族や友達連れの人も多かった。あったかいし気持ちのいい季節になってきたなぁと思うと気分もいい。

 ただ、あたたかくなってくると虫もたくさん出てくるからね。九華公園は桜の木がたくさん植わっているので、毛虫がめちゃくちゃいっぱいいる。ぼんやり歩いていると踏みつぶしてしまいそうになるから、地面を見ながら歩かないといけない。それに加えて、木の枝からぶら下がってる謎の虫もいるから、ちゃんと前方にも注意を向けていかなければならない。子どものころはそれなりに平気だったのに、大人になるとなんで虫が苦手になるんだろうか。地球は虫の惑星だというのに、これでは窮屈になってしまうよ。

 そんななか、ちょうどいいところを見つけてお弁当を食べる。やっぱり柿安のお弁当はおいしい。うちの近くにあったら毎週いっちゃうのに。こま切れ肉も毎週買っちゃうし、エビのマヨネーズ和えみたいなやつも毎週買っちゃう。とにかく行っちゃうのに。この辺にできないかなぁ~、と思ってのんびりと過ごしていたところ、突然上空から黒いネバネバが父の足に落下。めちゃくちゃびっくりして飛びのきながらよく見てみると、鳥の糞!見上げたらカラスが木に止まってたよ。やられた。自分じゃないけど鳥の糞にあたるなんて初めてだ。

 鳥の糞にやられるなんて、ふつうでいったらとても嫌なことだけど、このところの在宅生活で退屈な毎日にひと振りのスパイスを効かせてくれたようでなんかいい感じ(おちたのが自分じゃないし)。やっぱり人間は思いもよらないことが起こらないと退屈しちゃうんだなと思う。ウイルス対策で行けるところは少ないけど、生活の中で小さな驚きをなるべくたくさん見つけていこう。目を凝らすとなんだか不思議なことがたくさんあるもんだ。

 とりあえず明日は部屋の掃除を徹底的にやっていこう!

運動不足は動物にとって一番のストレス

 3月から異動となり、それまでのべらぼうにハードな毎日から一転、社内での一日の歩行距離が数百メートルの生活が始まる。加えてこの度の新型ウイルスによる外出自粛生活と、それに伴う在宅勤務の実施。社会のほうが目まぐるしく動いているのに対して、僕自身の体はどんどん動かないほうに向かっている。社会人生活も3年目に入るというところで、だんだんと気になってきたおなかのたるみに重くのしかかるこの現実よ。姿勢も悪くなっちゃうから肩も凝るし、「体を動かさなきゃ!太るのだけはやだって昔から思っていたのに!」週一でそんなエネルギー波が深層心理から寄せられるようになった。

 あと、いちばん困ったなぁと思っていることは、寝つきが悪くなってしまったこと。冬までは毎日くたくただったから、ご飯を食べてる間も眠くてぼーっとして、週末なんかは帰ってきてそのまま板間で寝てしまっていた。今はほとんど動かないから夜になっても眠くならない。そのくせ睡眠時間が短くなると朝方なんかはぼんやりしてしまうし仕事中も眠い。
 ほんとうになんてことだろうな、と思う。モチベーションの維持は他人に負けないよ!と思っていたのに、在宅で仕事なんかしてるとやる気も出ないもんな~。体の緩みが心に達してくる典型的なパターンですよ。困った困った。

  そんなときはやる気がでるのを待つのは愚策。体を動かし、部屋の環境を整えて外から変えるアプローチや!と思って、「そうだ!ジムにでも行って個人トレーナをつけましょう。」なんて閃いたのにさ。そういえば感染対策でスポーツジムはいま営業してないんだった。せっかく具体的な行動が決まりかけてやる気も出てきてるのに、なんてタイミングの悪いことだろう。いつまで続くかわかんないし、いやだな。

 こうなったら今は我慢と切り替えて持久戦。この自粛生活が終わったら美しいからだをつくり、きれいな部屋をつくり、そしてお弁当をつくろう!楽しみになってきたぜ!
 そうと決まればこのゴールデンウイークは部屋の掃除を徹底的にやってみようかと思案中。せっかくの長い休みだし、ふだん行き届かないところまでしっかりときれいにして、風も通してのんびり過ごしましょう。

明日から1区画ずつきれいにする。約束はまもる男さ。

コミュニケーションに難あり

 今日は会社で綺麗な感じの先輩社員と会話をして、まったくの仕事の話だけなんだけれどもちょっと嬉しいような感じがした。いったいなんだというのか、この理不尽な反応というのは。ちょっと女性と話せたというだけでルンルンなのか。単純すぎるにも程があるというものだよ。

 小さいときは猛烈な人見知りに重ねて常軌を逸した恥ずかしがりなうえに陥没するほどの引っ込み思案だったので、女の人と話すこと自体が難しかったような気がする。長年の特訓と修行のおかげで、最近はやっと普通な感じで他人と会話をすることができるようになってきたから、特に苦手だった女性との会話をこなせると嬉しいのかもしれない。たぶん他人から見たらあんまりうまいことスムーズに話せてはいないんだろうけれども、別にいいじゃないか人間だもん。

 とはいえ人とのコミュニケーションは非常にエネルギーを使うので、特訓の成果もあまり長いことは続かないのがまだまだ修行不足なところ。30分くらい雑談(自分にとっては非常に苦手な分野の会話)をしていると、だんだんと思考が内向きになってきてしまい、自分のなかで話題が縦横無尽に飛躍するようになってしまう。自分のなかでは話がつながっているのでそれを口にすると、相手はいきなりわけのわからないことを言われたような感じになるのでちょっと引いてしまうという事態が発生するのだ。自分でもなんとなくわかっているんだけれども、気づくのが言った後なのでたちが悪い。難しいんだ、コミュニケーションというのは。

 こんなに人付き合いが苦手なのに、よく今までさびしい思いをすることもなく良い友人仲間に恵まれてきたものだな~と思う。運よく気の合う人々と出会えたし、修行の成果も出てきたし、このまま頑張って人生を歩んでいくことにしよう!そうしよう!

甥っ子来る

 今日から妹のみーちゃんとその子ども(僕から見たら甥)のとんがりジョーが泊まりにきている。おおよそ一週間は一人暮らしではなくなる。ジョーは1歳と5か月ほどだけどめちゃくちゃしゃべるし動く。うちはアパートの2階なので下の人がうるさがっていないかとても不安。最近はご近所トラブルで刃傷沙汰になることも珍しくないので、もしものことがあったらと思うと片腹痛い思いがする。

 子どもが家にいるというのは何とも騒がしいものだけれども、いかんせんかわいいので許してしまう。もし同年代の友達とかが同じ騒がしさでいたらすぐに家から追い出してしまうだろう。元気なことはいいことなので、温かく見守っていくことにしようか。

 

年末来たり。若さは去れり。

 年末調整なるものを実施しなければならない。いったい何だというんだろうか。この年末調整というやつは。やりたいことはわかるけれども、調整しなくてもいいようにできないものか、と思う。自営業の人とかはさらに自分で確定申告をしなければならないらしいし、大人になると年末の忙しさというものを実感するようになるのだな。

 というか、いつの間にかすんなりと受け入れていたけれど、もう年末なんだね。ちょっとびっくりするくらい早く感じる。ついこの前夏休みが終わっちゃったような感じだったのに、もう今年も終わりとは。わたしの20代が終わっていく。

 30歳になる前に、何かしら“しっくり”くるものを見つけたいな~と思う。例えば山登りとかの趣味でもいいし、料理とか掃除とか、好きな場所とか。とにかく自分がカチッとはまるような何かを見つけて、そこに全力を傾けてみたい。何かいいものはあるかしら。今の仕事はどうもそんな感じではないけれど、このまま頑張っていれば変わってくるものだろうか。

 とりあえず一回海外に旅行に行ってみようかな。この歳になるまで一度も飛行機に乗ったことがないし。せっかく大人になってお金も稼げるようになったのだから、これまでできなかったことをいっぱいやっていこう。これが本当の自分探しというやつか。なんでもやってみないとわからないよなぁと思う。20代末に人生の調整といこうか、と意気込んでみたような日だった。

「何が言いたいの?」という顔面パンチのような言葉

 同期が言われている場面にちょくちょく出くわす。自分も言われてしまったことがあるけれど、これを言われるとめちゃくちゃ焦ってさらにわけのわからないことを口走ってしまうので、新人と呼ばれる人たちにとってはきつい一発なんだよね。

 似たような言い方で「ちょっと意味が分からないけど、~」というパターンもある。こちらは相手がそのまま言葉を続けるので、めちゃくちゃ焦って変なことを言うことはない。けれど相手が落ち着いていればいるほどなんだか惨めな思いがして傷つくので、ダメージは負けず劣らずでかい。

 言われる側としてはすごくしんどいので、なんでそんな言い方しかできないのか、と思ってしまう。しかし、一歩退いて考えるてみると、そんな言い方をさせてしまったととらえることもできる。自分の説明の仕方を振り返ってみると、確かにわかりにくいし余分な情報が多かったな~と思えるところがあったりする。

 要は開き直ってしまえばよいということである。確かに自分の説明はわかり辛いし伝わっていなかった。申し訳ない。だからもう一回聞いてくれ!という気持ちでゆっくり落ち着いて説明しなおせばよいのである。案外笑って「すいません!え~っとぉ…」みたいな感じでやり直せばちゃんと聞いてくれる。焦ってグダグダするよりお互いに気持ちがいいものだ。

 しかし、さわやかさを欠いてしまうと逆に相手をイラつかせてしまうので注意が必要。やはり若さというのは武器なんだなぁ。いずれ新人のフレッシュさも失われて、「いつまでもへらへらして済んでくと思うなよ。」とか言われるのではなかろうか。ていうかそういう歳になってちゃんとコミュニケーションも取れないんじゃ終わりなような気もする。

 平安時代の貴族は、当意即妙な和歌を詠むことが出世の必要条件であったという。現代でもそれは根底にあって、いかにその場に即したことを端的に伝えられるかという能力ができる人にとって必須なんだろうなと思う。適度なユーモアを交えながら最後にはみんなをうなづかせる。そんな口達者になりたいものだね。

最初で最後の初回免許更新へ行く

 早いもので、免許を取ってからもう2年もたってしまった。自動車事故の多さと運転の荒さで悪名高い愛知に住み、こうして無事に免許の更新ができたことに感謝しなくてはなるまい。

 免許更新といえば、「贖いの日々」が思い起こされる。会社員がちょっとした気のゆるみから死亡事故を起こしてしまい、遺族とのやり取りの中家族も離散。終わらない贖罪の日々を過ごす陰鬱とした演出は見ているもののまぶたに働きかけ、交通事故の当事者になることがいかに人生を破綻させるかを叩き込んでくれる。

 正直に言ってこの映像を見ていると気分が落ち込んでくるし、改めて言われなくても事故なんかしたくないと常々思っているから、あんまり見たくないなぁと思っていた。たぶんみんなそう思ってるし、見せる側もさすがに飽きてきたのかもしれない。今日の講習では20分の映像が流されたのだけれど、ドラマじみた内容は一切なかった。

 内容を思い出そうとしてもなかなか浮かんでこないのだけれども、だいたい交通に関する注意事項を明快なナレーションと映像で解説してくような感じだったと思う。人を轢いたら車を止めて介抱しなきゃいけないとか。疲れているときは運転を控えたほうがいいとか。

 おそらく現代人は共感能力が昔に比べて劣っている(ような気がする)ので、ドラマで悲惨さを伝えるよりも論理的にルールを伝えたほうがしっくりくるのかもしれない。僕もそっちのほうが見ていて楽なので、この方向転換は歓迎である。

 

雑記:通勤のルーティン

 最近、朝の電車に同期の人がひとりいる気がする。その人は違う駅の寮にいるはずなので、これまでももちろんいない人だったのだが。この前チラッと見かけた気がしてからずっといる気がする。気がするというと変な感じだが、はっきりと見て挨拶をしたわけではないので、いるかもな~くらいの感じなのである。意識的にいるような気がするゾーンを視界から外しているのだ。目があったりしたら挨拶しなくてはならないし、お互いの存在を無視できなくなってしまう。

 朝の駅というのは非常に規則的で、ほぼ毎日同じ顔ぶれがそろっておりなおかつ同じ配置についている。僕はそんなおなじみの人々が毎日同じ行動をとりつつも少しずつ変化しているところを見て無常を感じるのがとても好きなのである。祝日とかでいつもの人たちがいなくなると大変に不安な気持ちになってしまうほど、ルーティンをこなす人々を見るという僕のルーティンは重要なのだ。

 もしそこに同期が入ってきたとしたら。大変なことではないか。毎日なにかしらの中身のない話をして、朝の重要な時間を無為に過ごしてしまう羽目に陥ってしまう。これはとんでもない損失なので、できる限り避けなくてはならない。もしも何かのはずみでお互いに気が付いて(実際はすでに気が付いているが)しまったら、電車の時間を変える必要があるかもしれない。そうなったらまたいちからいつもの人々を脳内に構築しなくてはならない。それはそれで面白いが、進んで実践したい状況ではないのだ。

 そしてよく考えたら、むこうからもこちらに声をかけてこないということは、僕と同じことを考えているのかもしれない。地球上に人類が76億人いるにしても、考え方にしたらそうそう違いはないものではないか。だとしたらこれは、お互いに気が付かないふりをするということでお互いの同意がとれているということである。目くばせも交わさず、ただ気配を感じることのみで成立するコミュニケーションである。これが察するということなんだね。さすが日本人だなぁと思う。

雑記:五月病ひいて流るる梅雨の雨

 久しぶりに同期の人たちと話したら、なんだか疲れているようだ。それもしょうがない。会社で働くのは大変なことだからね。特に大きい会社になると、もうすでに出来上がっている仕事を出来上がっているやり方で進めていかなくてはならないから。まずは会社の文化と仕事のやり方を覚えていかないといけない。ここで主体性を失うと先が見えなくなって不安になったり、やる気が出なくなってしまうんだよね。

 でもよく考えたら、先輩の一挙手一投足をすべて真似ているわけではないし、長い年月をかけて先達が作り上げた仕事の流れを読み解いていくと考えればなかなか面白いのではないかなと思う。

 ところで、表題の俳句をよく見てみると、もしかしたら五月病と梅雨が二重の季語になってしまっているかもしれない。五月病は季語なんだろうか。特に調べたりはしないが。ちなみに意味合いとしては…五月病にかかって(ひいて)、それが治らないまま流れ流れて梅雨に入ってしまった。というふうにもよめるし…五月病がだんだんと薄らいで(引いて)きて、それを流すように梅雨の雨が降り始めた。というようにもよめる。けっこうよくできたかなと思う。

雑記:腕時計を忘れる

 今日は時計を忘れてしまった。朝家を出て、駅の前まで来てから気付いた。取りに行こうと思えば行けたけど、面倒なのでまあいいかとそのまま出社してしまった。おかげで一日何度も時計を見ようとして、あっ、そういえば無いんだったと気付くという意味のない行動をしてしまった。おかげで毎日無意識的に時計を気にしていることに気づいてちょっと感心した。

 時間帯にもよるが、およそ15分に一度程度は時計を確認する癖がついているようで、パソコンや壁時計なども頻繁にチラ見している。たぶんほかの人たちも同じような感じだと思うのだけれど、いったいなぜこんなに時間を気にしているのか、それが気になる。今も画面右下の時計を見てしまった。たぶんそろそろ寝る時間なので、あと何分くらいで今日の日記を書き上げようか気にしているのだろうと思う。自分のことなんだけれど、無意識なので推測である。また見た。なんだか他人の行動を見ているようで面白い。離人障のようなことを書いているがそういうわけではない。訓練されたメタ認知である。ということにしておく。

 もうすぐ寝なきゃ、とか会議の時間が、とか思っているとやはり脳にストレスがかかり、時計を見るという常同的な行動を起こさせるのだろうか。陸上部だったころに、大会前にはあくびが増えることがあったけどそれと同じようなことなのだろうか。だとしたら、まったく時間に縛られることなく、この瞬間から未来にかけてのすべての予定が自分の思うがままになるような生活をしていたら、時計を気にすることが無くなるのだろうか。願わくばそんな生活を送ってみたいものである。

 日が昇ったら起き、お腹がすいたら食べ、なにか心の向かうことをして、夜になったら眠る。なんという怠惰な生活だろう。あんまりいいとは思えないな。やはり少しくらいは時間を気にしたほうがいいだろう。近所の子どもが帰ってきて、なんだもうそんな時間か、といった具合に時が過ぎるのを思い出す。そんなくらいがちょうどいい気がする。どうしたらそんな生活が送れるのだろう。ぴかぴかの高い時計を買いだすようになる前に、方法を見つけたいものだ。