自分が変わってしまうことへの恐怖

 最近仕事がバリバリに忙しく、ここのところは帰ってきて勉強する気力がどうしてもおきない。仕方がないので「孤独のグルメ」などを見て早々にお風呂に入り、布団にもぐって寝る生活だ。死ぬ気でやらなければ!と思って頑張っていたけれど、どうも心の燃料が不足しているようだ。こんなときは無理をせず静かに自分の内面へ向き直るのがいいのだろうと思う。まあ仕事が忙しいのも自分の効率が悪いからだし、新人なんてものはそんなもんだろうし、そのうちどうにかなるから時間に任せておけばよいのだ。

 子どものときから感じていることがあって、自分の中で「自分が変わることへの恐怖」と呼んでいる感情がある。今自分が感じていることや欲しているものが、将来の自分にとっては価値のないものになってしまうのではないか、というような恐怖(というと大げさなので不安感かな)である。

 それをはっきりと自覚したのは小学校のとき。うちの家では父がゲームを好まなかったので、64とかプレイステーションなどのゲームハードは持っていなかった。僕は割かしビデオゲームが好きなので、ゲームハードが欲しかったけど、親にねだるということが性格的にできなかったので、ゲームボーイをお年玉で買って隠れてやるくらいだった。そうなると「大人になったら自分でゲームハードを買って思う存分ゲームをしよう!」みたいなプチ将来の夢みたいなことを考えるんだけど、そこでふと思い至ったのが「自分が変わる恐怖」だった。

 周りの大人はゲームをしていないし、やりたがっている様子もない。もし、大人になったらゲームをやりたくなくなる(大人になったら幽霊が怖くなくなるみたいな感じ)のなら、今の僕の「ゲームをしたい」という気持ちはどこかでなくなってしまうのかもしれない。そのことに気が付いたらなんともいえない不安な気持ちになってしまって、できることなら子どもであるうちにゲームがしたいな~と思ったものだ。何かをしたい、と思ったときにそれができずに、いずれそのこと自体を忘れてしまうのは僕にとってすごく恐ろしいことだ。

 でも結局高校生のときにPSPを買ってモンハンをやりすぎて視力が一時的にがた落ちしたし、大学入学前にPS3を買ってベヨネッタをやりこんだし、今もPS4を持ちながらPS5を手に入れようと思っている。任天堂スイッチも余裕があったらほしい。大人になってもゲームは好きなままだったから、心配はまったく必要なかったとわかった。そしていつの間にか興味がなくなったこと(エアガンでうちにいるネズミを討ち取りたいとか)は本当にもうどうでもいいので、そのときになったら後悔もないということもわかった(そういう状態になることを恐れていたんだけれども)。結局あるべきところに収まるというか、先の事を考えてむやみに不安がるのは不毛だしよくないなと思う。

 ゲームのことを考えると、最近はそんなことに気が付くようになった。そして最近、僕がなにやら人生に焦りのようなものを覚えているのもここに大きな要因があるのではないか、というような気がしている。いろんなところに行きたい、ゆっくり過ごしたい、体を鍛えたい。やりたいことはいっぱいあって、しかもできるだけ若いうちに(いまの気持ちがあるうちに)やってしまいたいと思っている。小さいときと同じだ。今まで発達するばかりだった体も衰えていく頃になって、老いたころには手遅れになってしまうことがあるんじゃないかと思ってしまう。20年後の僕は、今の自分を思い出してやはり子どもの自分を思い出す僕と同じように思うのだろうか。そのときになってみないとわからない。

 やっぱり未来のことを考えるのは不毛だ。考えれば考えるだけ恐怖感がますばかりで、結局そのときになったら収まるところに収まっているだけだ。今を生きる僕は、その時になって「まあ結局これでよかったじゃん。心配することなかった」と思えるように、ただひたすら一生懸命に生きていくだけだ。今日はもう疲れてお風呂に入って寝るけれど、明日もきっと頑張れる。なぜそう言えるかといったら、僕がそういう人間だから、ということである。

冬の幸せ

 今年は暖かい冬なのだろうか、とか言ってたらもうめちゃくちゃ寒くなってきた。今日なんかはあまりに寒くて、いきなり今冬の決意を破ってエアコンの暖房をつけてしまった。決めたことをこんなに簡単に覆してしまうのが、僕の意志薄弱でよくないところであり、同時に柔軟でよいところでもあると思う。そもそも「暖房をつけない」ということ自体にあんまり意味がないから、一時の思いつきに縛られて不便な生活をするよりも、方針を変えて暖かい部屋のありがたみを実感するほうが健康的だろう。

 僕は冬に感じる”暖かさ”が大好き。例えば、真冬のビル風を抜けて入った松坂屋の暖気を湛えたエントランスや、会社から帰るときの電車の座席。暖かさは死が自分から少し遠ざかったことを示す、本能が感じる喜びだ。他の季節では味わえない幸福な気持ちがうれしくて、寒いのは嫌だけど冬が来るとうれしくなる。

 長い間、冬に感じる暖かさの幸福ナンバー1はお風呂だった。冷え切った足先を40℃のお湯につければ、思わず笑みがこぼれるくらい幸せで気持ちがいい。よく考えたら、毎日飲むためではない水を温めて何十リットルも使えるのはとんでもない贅沢だ。当たり前で気づきにくいことにも、こうして感じ方が変わることであらためて気づくことができる。それも含めて冬のお風呂は夏に入るよりも僕にとって何倍も価値があって、毎日感じられる大切な幸福な時間だった。いや、今もそうなんだけどもっと素晴らしいものを見つけてしまった。

 それは、「お風呂からあがったらすぐに湯たんぽと共に布団へ入る」ということ。こんなに素晴らしいもの(?)はなかなか見つけるのが難しい。お風呂上りで体が温まっているうちに、暖かい湯たんぽを抱いて布団に入ると、もう部屋の寒さなんてどこかへいってしまうのだ。毎日こんなにいい思いができるので、冬のあいだはとにかくはやくお風呂に入って、とにかくはやく布団に入りたい。夜更かししてても寒いだけだし。自然と早寝早起きの習慣になるので生活習慣的にもいい感じ。やっぱり冬はいい季節だな~と思う。

最近現実逃避ばかりしている

 よく日本人の生産性が低いというのを見かけるけれども、海外の人たちがどういった具合で仕事を進めているのか気になる。バリバリと短時間でやることをやりきっているのだろうか。おなじ人間だからそんなに違いがあるようにも思えないけども。

 自分で考えると、生産性は極めて低いように思える。同時にあれもこれもやろうとして結局それぞれの進捗がちょっとずつだから、「今日なにをしたっけ?」とか考えるとなにもしていないような気がしてくる。そんなはずはないんだが。いやしかし、もしかしてなにもしていないんだろうか。いやいや~。こんなことではいかんなぁ、まったく。

 そんな風にあっちやこっちへ注意が行ったり来たりを繰り返しながら午後になってくると、もう頭が回らなくなってやる気もなくなってお菓子とか食べだしてますます生産性が落ちる。残業もできないのに時間だけを消費するなんてそれは罪だよ。こういうときはもう帰っちゃって、明日の朝にパリっと気分新たに作業するのがよいのだ!と自分に言い聞かせて帰る。明日の自分が頑張ればいいのだ。今日は帰って寝よう。

 疲れたときにする妄想があって、それは自分の中のいろいろな感情を物理的に分裂できればな~というもの。仕事をバリバリやりたい自分(確実に存在している)、のんびりしていたい自分、遠くへ遊びに行きたい自分。それぞれが独立して体を持って、好き勝手にやりたいことをやってればいいのに。どうして僕の体はたったひとつしかなくて、なにかひとつやることを選ばなくてはならないんだろう。しかも生きるためにはたいてい仕事をしていないといけないし。いくら仕事をしたい自分がいたとしても、ほかの自分が我慢ばかりしていたのではアンバランスだ。調整役の統合された僕はいつも困っている。そんなこんなで、暴動が起きる前に「中年を迎えるころまでになんとかして雇われの身を辞めよう。自分のやりたいように生きられるようにしよう。」という砂漠に浮かぶ蜃気楼のような目標を立ててごまかしているのである。自分のマネジメントをするのもなかなか大変なものだよ。

育てる≒伸ばす≠変える

 人を育てるのは難しいことだな~と思う。今は育てられる立場に立って生活しているけれど、僕をより成長させるにはこうすればいいのに、と何目線かわからないようなことをちょくちょく考える。

 新人教育や人材育成の難しさがどこからくるのか。いろいろな側面があるのだろうけれど、一番大きいのは”個人差”であろうと思う。どれくらい理解力があるかとか、自主性があるかとか、そういうのだけでなくもっと根本的な、どういう認識の仕方をするかとかどういったところに注意が向くかといった、半ば無意識的なところが重要になってくるように思う。人によって、文字ベースであったり映像ベースであったり、抽象的であったり作業的であったり、物事を理解して飲み込むときの噛み砕き方が違うので、教える側とそこがずれると苦労するだろうなと思う。

 最近は多様性が重要だということで、トヨタ自動車では理系の推薦枠を廃止。学部の枠にとらわれない採用をしていくということだが、そういった所属的な意味での多様性よりも各個人のパーソナリティの多様性がより重要だと思う。興味の向く方向(内的、外的)や物事の認識の仕方、性格などが偏ってしまうと組織に方向性ができてしまい変化に対応しづらくなってしまう。会社の求める人材像や、現場の人々が感じる「いっしょに仕事がしたい」という感覚で人を選ぶとどうしても選ばれる人のパーソナリティに偏りができてしまうだろう。性格診断や専門の人が面接に入るなどして、戦略的に取り入れなくてはならない性格をもった、求める人物像を体現できる人材を採用していかなくてはならないのだろうなと思う。

 そうなってくると、それぞれの人物に最適な教育方法は変わってくるし、活躍できる場所も当然違う。というよりも順番的には、その場所にまさに必要なパーソナリティをもった人物を適切に配置するということになるだろう。これまでは、改革が必要なところにはその実績がある人を送って腕を振るってもらう、という「能力」を主眼においた配置がなされていたが、それは短期的に場を変革するための戦術的な策だ。長期的な視点に立って、変化に強い自己変革のできる組織を作るなら、そのような視点(性格)をもった人物を配置して伸び伸びやってもらうのがよいだろう。ここで画一的な教育をしてしまうとせっかくの個性がつぶされてしまいかねない。多様性を維持するためにも、個人の特性をみた教育は非常に重要であるはずだ。

 しかしながら、そんなことができる人が一体どこにいるだろうか。日本は小学校に入る前から画一的な教育を受けて大人まで育つ人がほとんどだから、人によって適切な教わり方があるという認識すらない人も多いのではないだろうか。変化の多い時代。~人材などいろいろなことが言われているが、個人を個人として認識し、真に適材適所で配置できるようになるのは一体どれほど先の事になるだろうか。というかそんな時代はくるのだろうか。

湯たんぽを買ってQOLをあげる

 今年の冬は暖かいのだろうか。12月に入ってやっと少し冬らしくなってきたけど、昼間は結構あったかいし、週末に街を歩いていたら汗ばむほどだった。あったかい冬は嫌いじゃないけれど、季節を感じることができないとメンタルに影響するので冬らしいなにかが見つからないかな~と目を凝らす今日この頃である。

 そんなことを言いつつ、ここ最近はふところが極寒であるので、気温があまり下がらないのはありがたいことだ。暖房にお金をかけなくても済んでいくから。

中学の頃、歴史の教科書に世界の伝統的な越冬設備が載っていたのをよく覚えている。例えば韓国の「オンドル」、フィンランドは「サウナ」(これ越冬設備か?)、ヨーロッパの「暖炉」など。冬を越す、というのは、温帯生まれの人類にとってひとつの挑戦であり、繁栄のための超えるべき大きな壁であった。各国の土地、文化にあった方法で暖をとり、知恵と工夫で次の春を待ったのだ。もちろん日本のことも書いてあって、そこには「囲炉裏」と「がまん」とあった。がまんて!なんてこった。昔の日本人は冬の寒さをひたすらがまんしていたのである。えらいこっちゃ。そんな風に思っていたのが昨日のようである。

 今年も終わりに近づいて、わけあって僕の貯金はほぼ0である。冬のボーナス(減ったけどもらえる。ありがたいこっちゃ)も全額持っていかれる。そんななか、僕はこの暖かい冬を暖房なしで乗り切ることを決めた。まったくもって日本人である。昔の人は大変だな~とか言っていられない。まさに自分自身が「がまん」を体現して冬を越さねばならないのだ。おそらくDNAに刻み込まれた精神が遺憾なく発揮されているのであろう、この判断に至るに刹那ほどの逡巡もなかった。

 しかしながら、朝が寒いのはやはりつらい。起きるのがおっくうになってしまうし、そうなると出社が面倒になってしまう。実際最近かなり面倒くさい。このままでは精神衛生上よくないので、湯たんぽを買った。電気で20分温めて6時間くらい保温できるやつ。こいつがすごい。めちゃくちゃいい。布団に入れるとまさにぽかぽかなのだ。冬でもちょいちょい足を布団の外に出してしまう僕なので、お風呂上りに湯たんぽと一緒に布団にもぐれば、もう寒さなどどこかへ吹っ飛んでしまう。朝もぼんやりあったかいので、そのぬくもりを頼りに体を起こし、素早くコンセントへつなぐ。歯を磨いたり朝食を準備する間に温まってまた今度はぽかぽかの毛布空間を提供してくれる。八面六臂の大活躍である。

 エマ・ワトソンも湯たんぽは最高と言っていたし、僕も実感としてこいつは最高だと思うので、QOLをあげるためにも多くの人が使ってみるといいですよ~と思う。

小林賢太郎さんが引退ですって!

 ラーメンズの小林賢太郎さんがパフォーマーを引退するとのニュースが。会社から帰る電車のなかで大変に驚いてしまった。誰かが何かを引退する、というニュースで「な、なんと!」という気分になったのは初めてかもしれない。歌手や俳優なんかだと作品はその作品として残るし、僕にはCDを聞いたりDVDを見る方が本人に会うよりも大事なので引退のニュースはそれほど胸に響くものではない。スポーツはもともと興味がない。最近は”~ロス”という言い回しがよく使われるけれども、自分には縁遠い事柄だな~と思っていた。でも今日のニュースは衝撃だなぁ(街頭でインタビューに答える人のように大げさではないけども)。

 なんで小林さんに限って動揺したのかな~と考えると、たぶん舞台を見に行くのを僕が楽しみにしていたからなんだなと思う。観劇する、というのはその時にしか味わえない無二の体験だ。あとから公演を収録したDVDやBlu-rayを見ても、おなじ感動は味わえない。実際に見た時のことを思い出して追体験するのがせいぜいで、行っていない公演をビデオで見ても、それは別物になってしまう。テレビやラジオ、本さえ無く娯楽に飢えていた中世の人々が、オーケストラの演奏を初めて聞いたときの感動を僕らが決して味わうことができないのと一緒だ。

 社会人になってやっとチケットを買うことができるようになって、栄のロフトの劇場まで初めて行ったときのことは今でもよく覚えている(というかほんの数年前)。あんなにどきどきして、わくわくして、楽しくて、さわやかに終わるものがあるなんて。他のどんなものにも感じたことのなかった非日常を体験したあの時から、小林さんの公演に行くのが人生の楽しみになっていたんだな。次はいつ見られるんだろう、そう思って待っていたから、その次が来ないことを知ったとき、落胆してしまったのだろうなと思う。

 そんなことを言ってもご本人が決めたことなので、なんやかんや思っていてもしょうがない。最後の演目を見に行けたことをよかったと思って感謝しよう。演劇やコントを見に行く楽しみを与えてくれたことが僕の人生をどんなに豊かにしただろう。こんな路傍の石ころのような人間に幸福を与えることができるなんて、なんて素晴らしいんだろう。とどくことはないけど「ありがとうございました」と言いたいな。 

 ただ独白するだけの日記に感情があふれてしまうほど、今日は驚いた。明日から何を楽しみに生きていこう。あんまりないんだ、楽しみが。とりあえず部屋の掃除でもコツコツやろうかな~。