駅の階段の足音の話

 電車で通勤していると運動不足がちょっと解消されるのでいいな~と思う。往きの電車は座らず、駅から会社までも歩き。往復で1時間くらいは歩くので、毎日3キロ弱のウォーキングが自然に行える。あと、駅の階段は30段くらいあるのでその上り下りも追加。重力に逆らう運動は骨の強度をあげるのにいいらしい。

 階段を上ったり下りたりしているときにいつも思うのが、とんでもなく大きな足音を立てている人が絶対にいること。足音というよりも”踏みつけている”って感じの音。「ダンッ!ダンッ!ダンッ!」みたいな。なんであんなに力を込めて階段を上がってるんだろう。力の加減がわからない系の人なのだろうか。

 必要以上の力を込めて階段を踏み抜くようにしているからあんなに大きな音がでるんだろう。なんだか怒っているようで近寄りがたい感じがする。これに似てるな~と思うことがあって、子どものころから不思議だったのが僕の父親の噛むときの音。ケーキとかの柔らかいものを噛むときに、こっちの耳に十分に聞こえる音量で歯がカチカチ(というかコンコン)当たる音が聞こえる。このやわらかなスポンジをどんな勢いで噛んでんだ…、といつも不思議だった。おそらくもののやわらかさに対する必要な顎の力なぞ考えずにすべておなじ力で噛んでいるのだろう。見事な単細胞っぷりだ。

 こういう細かいことを気にしていると他人から嫌われそうだけれども、心の中で思っているだけなのでいいかなと思う。別に神経質なわけではなく、単純になぜそうなのかが気にってるだけなので、気軽に聞ける人がいたら聞いてみよう。きっとなにも気にしていないに違いない。

それを料理と呼んでいいのか

 寒くなってきたし今日はおでんにする。1人用の土鍋があるので、各種練り物を買ってきて煮るだけでいい。おでんは独り身にやさしい食べ物だ。もちろん家族で食べてもおいしいけれども。決めたら動けるようになるので、スーパーへおでんのセットを買いに行く。特に好きなタネがあるわけでもないので、なにか安いものをと思っていたら、大きめのパックに9種類ほどの練り物が入ったやつが290円×0.8で売られている。なんという安さだろう。僕の心情的にはこういった安いものはなるべく買わないようにしているんだけども、このところの氷河期を迎えつつある懐具合をかんがみれば迷うこともない。すぐにカゴに入れる。

 その少し奥にはさかなが売っている。いいことを思いついた。おでんの出汁(パックに濃縮出汁がついている)が余ったら、それであら汁的なものを作ろう。これで今日と明日2日分のメニューが決まった。ぶりのあらが300円くらい。切り身に比べるととても安くて量も多い。正味量で考えるとわからないけれど、お得な感じはする。こういった、ちょっと食べづらいような部位は安く売っているので、僕のような貧乏な若者にはありがたい食材だ。ただ、ちゃんと処理をしないと臭かったり筋張っていて食べにくいので、そこは労力をかけて食べられるようにするしかない。やっぱりモノの値段には相応の理由があるんだなぁ~と、こういうところから感じられる。

 最近はぜんぜん料理をしていなかったけれど、やっぱり食材を見て、何を作ろうか考えて、工程を組んで、美味しくできたごはんを食べるのは気分がよくなる。週末くらいはなにか好きなものを作ろうか。寒くなってきたし、鍋やうどんなどパっとできるおいしいごはんがたくさんある季節だ。お金のない暮らしは大変ではあるけれど、頭を使う機会が増えて楽しくもある。安くておいしいものを見つけたり、自分でつくるのは、その最たるものだなと思う。

潤滑油になれない人

 職場に食堂があり、事務所のある建屋とは違う建屋に入っているため、昼食時には5、6分歩いてごはんを食べに行く。今日の昼休みは珍しく先輩社員と世間話をしていたため、そのまま連れ立って食堂まで向かう運びとなった。世間話ほど苦手なものもそうそうないけれども、円滑な業務と生活のために何気ないコミュニケーショをとっておくのは得策である。幸いに先輩社員が楽しそうにスポーツのことなんかを話しているので、相槌をうちながら傾聴していればよい。

 そうして事務所のある建物を出たのだけれども、そのときに見た空が本当に素晴らしかった。空気が澄んできれいに青みがかって、薄く綿を敷いたような雲がなんとも言い難い、複雑な美しい模様を描いている。1人であったならば、その感動を噛みしめて束の間の安息を得たであろうに、連れ立っているがためにゆっくりと感じ入ることができなかった。なんというもったいないことをしてしまったのだろう。タイミングの悪さを呪いたくなる出来事だった。

 他人とコミュニケーショをとるというのは、人間には欠かせないことだと思うけれども、僕にはどうもうまくいかないことが多い。いろんな人と気持ちよく会話できるひとはすごいな~と思う。

褒め方ひとつで変わること

 褒められるのはうれしいことだと思う。けれども、それが他のだれかを貶めるためであったり、他のだれかを貶めることによってもたらされるものだと、うれしいどころかひどく侮辱されたような気持になる。少しニュアンスは違うけど、「~を見習いなさい」ということを言ったりするとき、見習われる方は少なからず居心地の悪い思いをするものだ。

 子どもを褒めるときにもこの点は気を付けなくてはならないと思う。努力をして何かを達成したのなら、その子自身の頑張りを認めてやらなければならない。決して、誰かと比べて多かった少なかったと評価してはいけないと思う。なぜなら、純粋に目標へ向かって頑張っている人には、他人など眼中にないからだ。ただ自分自身と向き合い、苦しさを噛みしめて耐え、達成したときの喜びを糧に努力を重ねる。そこへわけのわからない他人の評価を重ねるのは無礼だし、自分の努力を否定されたような気持ちになってしまう。

 褒めることや報酬を与えること(大枠では同じ意味)は、動機づけとして非常に重要であるけれど、やり方によっては反対の効果を発揮してしまう。けっこう難しいものなのだ。子育てにおいて、”しかり方”に関して悩んだり、持論を持っている人はよく見かける。しかし、子どものモチベーションを大きく左右するのは”褒め方”であって、しかるときよりもよほど慎重にやり方を考えるべきだと思う(しかるときは、ダメなものはダメだときっぱり言えばよい。善悪の判断を教えるためで、感情をぶつけるのは違う)。

 自発的な努力は人生を豊かにするうえで非常に大きな価値を持つけど、これを形作るのは褒め方によるところが大きいと思う。だから、自分に子どもができたら精一杯気を付けて褒めてあげようと思う。無論、来世での話ではあるが。

通勤という瞑想

 夏休みが明けたころから6時前に家を出ている。10月に入るころくらいまでは、日が出る前は涼しくていいな~と思っていたけど、今日は玄関を出たらとても寒かった。とうとう冬がやってきたな、という雰囲気だった。僕は冬が一番好きな季節なのでうれしいけれども、やっぱり寒い中歩くのはつらく感じてしまうよな。

 川を渡るときに目に入ったのは、マガモの群れが水面を滑っていて、紅く染まった落ち葉がその傍らを通り過ぎていく光景。自然の情景は見るだけで心が休まる。窮屈な事務所でPCの画面と対峙し続けるのがどんなにストレスがたまるかをかえって再認識させられるような気がする。束の間の開放と、これからまさに挑まんとする戦いの場。通勤路というのは複雑な面相をもった瞑想の場であるといえよう。やはり人が少ない早朝が望ましい。

 毎日決まった時間、決まった電車に乗る人々。機械のように同じ動きを続けながら、その実少しづつ変化する彼ら彼女らを定点観察するのも楽しい。自分もそんな人たちの一人だと考えると、東野圭吾の世界に飛び込んだかのような感覚におちいる。求めることとは反対に、機械的に仕事へ向かう体から離れていった心が、ふわりふわりとこぼす現実逃避。そんなときの僕は最高にクリエイティブだけど、帰り道には朝の妄想は忘れてしまって、今日の反省や明日やることを反芻している。やっぱり一刻も早く、ただ無為に過ごす生活を手に入れなければならないな。毎日そう思う。

最近の夜ごはん、10分で終了

 今月に入ったあたりからごはんを作らなくなった。半年ほど前までは食材を買ってきて結構手の込んだおいしいごはんを作っていたけど。3か月前くらいからは缶詰でソースを作ってパスタ1皿だけの生活に入り、とうとうソースすら和えるだけのやつを買ってくるようになってしまった。自分で選択してやっているけどちょっと寂しい気はする。

 せっかく肌の調子もよかったのになぜごはんを作らなくなったのかというと、絶対に達成したい目標ができて、その達成のためにはできる限りの時間を勉強とかにあてないといけないと思ったから。目標というのは40歳になる前に雇われの身を辞めようということ。あと10年だから、死ぬ気で自分にできることを探さないと達成はできないだろう。

 もちろん、収入を激減させて我慢して暮らすならすぐにでも会社を辞められるけど、そんな暮らしはしたくない。自分で時間の使い方を決めたいし、お金の使い方も自分で決めたい。すなわちわがままなのだ。

 わがままを通すためには相応の努力をしなければならない。僕のような後ろ盾のない貧乏人であればなおさら、だれにも文句を言われない状態で大手を振って世間にサヨナラしなければ。20代も残りわずかとなって人生の課題を発見したから、スタートが遅れた分必死にならなければな~と思う。