最初で最後の初回免許更新へ行く

 早いもので、免許を取ってからもう2年もたってしまった。自動車事故の多さと運転の荒さで悪名高い愛知に住み、こうして無事に免許の更新ができたことに感謝しなくてはなるまい。

 免許更新といえば、「贖いの日々」が思い起こされる。会社員がちょっとした気のゆるみから死亡事故を起こしてしまい、遺族とのやり取りの中家族も離散。終わらない贖罪の日々を過ごす陰鬱とした演出は見ているもののまぶたに働きかけ、交通事故の当事者になることがいかに人生を破綻させるかを叩き込んでくれる。

 正直に言ってこの映像を見ていると気分が落ち込んでくるし、改めて言われなくても事故なんかしたくないと常々思っているから、あんまり見たくないなぁと思っていた。たぶんみんなそう思ってるし、見せる側もさすがに飽きてきたのかもしれない。今日の講習では20分の映像が流されたのだけれど、ドラマじみた内容は一切なかった。

 内容を思い出そうとしてもなかなか浮かんでこないのだけれども、だいたい交通に関する注意事項を明快なナレーションと映像で解説してくような感じだったと思う。人を轢いたら車を止めて介抱しなきゃいけないとか。疲れているときは運転を控えたほうがいいとか。

 おそらく現代人は共感能力が昔に比べて劣っている(ような気がする)ので、ドラマで悲惨さを伝えるよりも論理的にルールを伝えたほうがしっくりくるのかもしれない。僕もそっちのほうが見ていて楽なので、この方向転換は歓迎である。

 

雑記:通勤のルーティン

 最近、朝の電車に同期の人がひとりいる気がする。その人は違う駅の寮にいるはずなので、これまでももちろんいない人だったのだが。この前チラッと見かけた気がしてからずっといる気がする。気がするというと変な感じだが、はっきりと見て挨拶をしたわけではないので、いるかもな~くらいの感じなのである。意識的にいるような気がするゾーンを視界から外しているのだ。目があったりしたら挨拶しなくてはならないし、お互いの存在を無視できなくなってしまう。

 朝の駅というのは非常に規則的で、ほぼ毎日同じ顔ぶれがそろっておりなおかつ同じ配置についている。僕はそんなおなじみの人々が毎日同じ行動をとりつつも少しずつ変化しているところを見て無常を感じるのがとても好きなのである。祝日とかでいつもの人たちがいなくなると大変に不安な気持ちになってしまうほど、ルーティンをこなす人々を見るという僕のルーティンは重要なのだ。

 もしそこに同期が入ってきたとしたら。大変なことではないか。毎日なにかしらの中身のない話をして、朝の重要な時間を無為に過ごしてしまう羽目に陥ってしまう。これはとんでもない損失なので、できる限り避けなくてはならない。もしも何かのはずみでお互いに気が付いて(実際はすでに気が付いているが)しまったら、電車の時間を変える必要があるかもしれない。そうなったらまたいちからいつもの人々を脳内に構築しなくてはならない。それはそれで面白いが、進んで実践したい状況ではないのだ。

 そしてよく考えたら、むこうからもこちらに声をかけてこないということは、僕と同じことを考えているのかもしれない。地球上に人類が76億人いるにしても、考え方にしたらそうそう違いはないものではないか。だとしたらこれは、お互いに気が付かないふりをするということでお互いの同意がとれているということである。目くばせも交わさず、ただ気配を感じることのみで成立するコミュニケーションである。これが察するということなんだね。さすが日本人だなぁと思う。